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日本橋川(26)「茅場橋」傷心の其角がいた [日本橋川]

kayababasi41_1.jpg 「江戸橋」の下流、新大橋通りに架かるのが「茅場橋」。江戸城が出来た当初は茅原で、屋根葺の材料となるカヤ商人が住んでいたとか。「鎧橋」から「霊岸橋」までの茅場河岸は、次第に下り酒の酒蔵、酒問屋がならぶ商業地へ。それでも橋はなく、昭和4年(1929)の震災復興事業で架橋。平成4年に老朽化で架け替え。新しいだけに江戸や明治の逸話なし。当時は「鎧之渡」から「鎧橋」を渡って対岸に行ったのだろう。

 「茅場橋」を南に渡ると永代通り。この辺は茅場町一丁目。通りに面して「其角住居跡」の碑あり。同碑は昨年十月の夢枕獏『大江戸釣客伝』(1)で紹介済。この小説は其角と多賀朝湖(英一蝶)が佃島沖で春キス釣りを愉しむ場面から始まる。

m_kikakukayabacyu_1[1]_1.jpg 其角は魚河岸の項で記したが、日本橋堀江町生まれ。14歳で蕉門に入って<十五から酒をのみ出てけふの月>。田舎育ち・芭蕉に叶わぬ江戸っ子の粋が溢れた句で、蕉門十哲の筆頭俳人へ。芭蕉を看取った4年後、元禄11年(1698ん)に南港(芝)に新居を構えるが、間もなく類焼で一切を失った。火災八日前には将軍を揶揄した咎で親友・多賀朝湖が三宅島に流刑。傷心を胸に元禄13年、40歳春の転居だった。

 「其角住居跡」裏に「智泉院」「山王日枝神社摂社」あり。其角句に<梅が香や隣は荻生惚右衛門>あり。ここへの移転は悲しみを抱えてか、<憎まれてながらへり人冬の蠅>。酒量が増したか、若き日々の放蕩がゆえか、5年後に47歳で病没。

 多賀朝湖は其角死去の4年後、綱吉死去による将軍代替わり大赦で12年振りに江戸に戻った。島を去る時に、菊の花房に蝶が舞った。母の旧姓「花房」から「英」に、一蝶で「英一蝶」を名乗って再び大活躍。百両で買い占めた初茄子を肴に酒を呑む大画家になって73歳没。これまた自転車を駆って、高輪の「承教寺」の英一蝶の墓を掃苔済み。

 東京をポタリングしているってぇと、すでに別件で触れた好きな文人らのゆかりの地に幾度となく出逢うのも歓びなり。其角が住んでいた頃は長閑な地だったそうだが、明治廿年代になると谷崎潤一郎がこの地で幼少期を過ごす。


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