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東京湾汽船と谷崎潤一郎と野口富士男 [週末大島暮し]

tanizaki1_1_1.jpg ブログは目下「日本橋川」シリーズと雑記の交互進行中。「鎧橋」橋詰の案内板に、谷崎潤一郎『幼少時代』より「鎧橋」の思い出が記されていた。同著は彼が数え70歳の執筆。明治19年の日本橋蛎殻町での誕生から阪本小学校卒業までの思い出が書かれている。同作と野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』を併せ読んでいたら、「東京湾汽船(現・東海汽船)」がらみが二つも出てきたのでビックリした。

 彼の祖父「久右衛門」が一代で谷崎家の繁栄を築いた。「谷崎活版所」を設立して米相場の変動を朝夕刷って大成功。祖父の長女・お花の養子に「谷崎久衛門」を名乗らせて米穀仲買店を持たせた。次女・半には百両で買い上げた霊岸島の「真鶴館」を持参金代わりに持たせた。三女・関には長女婿「久衛門」の実弟・倉五郎を迎えさせ、関と倉五郎の間に生まれた長男が潤一郎。

 祖父の長男が「二代目久右衛門」を継ぐも道楽息子だった。「東京湾汽船」社長・桜井亀二の娘・菊と結婚するも、柳橋芸者・お寿美を落籍。妻妾同居から菊が離婚。事業も信用を失って活版所も「久衛門」に買い取ってもらって放浪生活へ。

 結局、谷崎潤一郎の父の兄「久兵衛」が谷崎家の面倒をみることになった。だが潤一郎が千代夫人と結婚して鮎子を産んだ年、大正4年の29歳の時に、谷崎家を支えてきた「久兵衛」も、息子の無茶な相場による借財を負い、大島通いの船から身を投げた。

 谷崎潤一郎の人生に、思いもかけぬ東京湾汽船とのからみが二件もあった。そして今回の大島暮しの読書用に持参した野口富士男著『わが荷風』の巻末に、永井荷風年譜と著者年譜が載ってい、昭和28年(1953)に著者の父も事業失敗で、東京湾汽船から身を投げたとあった。野口富士男はこの事件を『耳のなかの風の音』で書き、『かくてありけり』にも書いている。 (写真は谷崎潤一郎『幼少時代』収録の全集第十七巻と野村尚吾著『評伝谷崎潤一郎』。野口富士男についてはまた改めて記す)


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