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日本橋川(27)「茅場橋」谷崎潤一郎の幼少時代 [日本橋川]

yoroibasi2_1.jpg 「鎧橋」橋詰の案内板に谷崎潤一郎『幼少時代』より「鎧橋」の思い出が紹介されていた。いい機会ゆえ同作を読む。70歳になった著者が、幼少期を鮮やかに思い出している。

 彼の祖父・久右衛門が米相場の変動を朝夕刷る「谷崎活版所」を設立して谷崎家の繁栄を築いた。彼は日本橋蛎殻町の祖父の家に同居の父・倉五郎、母・関の長男として明治19年に生まれた。幼少期に最も長く住んだのが南茅場町の家。

 その家は南茅場町45番地。「茅場橋」架設が昭和5年ゆえ、「goo」の明治地図を見ながら、記述を追ってみる。・・・小網町の方から来て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町と云い(中略)、その通りを南へ一二丁行くと~。また別の文で・・・「霊岸橋」から百メートルほど西~。地図を指で辿れば45番地あり。現・永代通りと新大橋通りが交差する「茅場町」辺り。

 ・・・南茅場町の地内は、徂徠や其角が住んでゐた宝永享保頃は、一面に蘆萩の生ひ茂る閑雅な土地であつたと云ふが、明治廿年代でも、今から思へばほんとうにのんびりとした長閑なものであった。

 45番の隣に薬師堂と日枝神社。電車通り反対側に「其角住居跡」碑。そこから亀島川に架かる「霊岸橋」を渡って小岸幼稚園へ。6歳まで母の乳房を放さず、教室の机脇にばあやがいないと泣き出す子。日本橋川と亀島川の角に、祖父が百両で買って持参金代わりに次女・半(母の姉)に与えた「真鶴館」あり。

 阪本尋常高等小学校入学。埋立られた「楓川」(同作には、もみぢ川のルビ)沿いで消防署の隣。入学式は講堂ゆえ、ばあやの姿が見えず泣き逃げる子だった。入学2年後に霊岸橋寄りの南茅場町56番地に移転。友達と遊べるようになると、鎧橋下の荷揚げ場に繋がれた船が住まいの鐵公、蒲鉾屋の新公、髢屋(かもじや)の幸吉、仕出屋の徳太郎などの友達、また先生の思い出。

 こんな文章もあり。・・・小網町河岸には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいた。(略)。前の流れを往き来する荷足船や傅馬船や達磨船などが、ゴンドラと同じやうに調和してゐたのは妙であった。この景色は野口富士男著『かくてありけり』で、母と離婚して流れ者のように暮す父を小網町へ訪ねる大正9年のシーン。・・・対岸に白壁の倉庫がずらりと建ちならんで箱根川には伝馬船や荷足船がぎっしり入っていて、天井の低いその土蔵造りの店の鉄格子がはまった二階の窓からは、軽子がひょいひょいと板子をしなわせながら荷揚げをしている姿が眺められた。でも描かれている。

 これら情景は、井上安治描く「鎧橋之景」(写真上)ではないかと思うと、さらに当時が忍ばれる。


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