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日本橋川(28)「湊橋」の不義密通 [日本橋川]

minatobasi4_1.jpg 「茅場橋」から下流の「湊橋」の間の右岸に「亀島川」が合流。「日本橋水門」から永代通りに架かる「霊岸橋」。「亀島橋」~「高橋」~「南高橋」を経て隅田川へ。霊厳島については、すでに「東京湾汽船の昔の発着場」調べ、かつ永井荷風の月夜散歩路として紹介済。

 「湊橋」橋詰に案内板あり。・・・この橋は霊厳島(現在の新川地区で通称こんにゃく島とよばれていた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679)に架けられました。この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が立ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。橋名由来は、江戸湊の出入口から。現在の橋は、関東大震災の復興期に再建され、平成元年の整備事業で装いを新たにしました。

minatobasi3_1.jpg 案内板には「江戸名所図会」が紹介されていた。この絵は「山王祭・其三」で、当時の山王祭の様子が描かれたもの。日本橋川沿いにズラッと倉庫が建ち並んでいる。祭りの行列は日本橋川左岸から「湊橋」を渡って、また上流に戻って「霊岸橋」を渡っている。倉庫前には天幕付き観客席があって見物人がびっしり。「湊橋」を渡った右岸にも莚に座った観客。祭り見学の船も多い。当時の山王祭りは神田祭りと共に江戸天下祭り。永田町の日枝神社と連動で、この地でもかくも盛大に行われたってことだろうか。

 現在の「湊橋」はコンクリートアーチ橋。タイル仕上げのモダンな橋で、中央に下り船か、立派な帆かけ船のエンブレムが飾られていた。ええっ、タイトルの不義密通

minatobasi1_1.jpg 「湊橋」を渡って「霊岸橋」の間の一画に、谷崎潤一郎の祖父が次女に持参金代わりに持たせた百両で買った「真鶴館」あり。明治44年、潤一郎は永井荷風の好批評にブルブル震える感動を得た翌年、徴兵検査に脂肪過多症で不合格。「真鶴館」に籠って執筆。当時の同旅館経営は従兄の江尻雄次。潤一郎は、彼の妻で女将の「お須賀さん」とよからぬ関係になったらしい(噂)のだ。「東京日日新聞」の『羹』連載中なれど、執筆よりお須賀さんとのイチャツキの方が愉しかった。結果、江尻夫妻は離婚し、江尻氏は後に歯医者になった。某が佐藤春夫に歯医者紹介を依頼されて江尻歯科を紹介。潤一郎は秘密がバレると烈火の如く某に怒ったそうな・・・。


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