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霊岸島~芝浦~月島桟橋~竹芝 [週末大島暮し]

toukaitukisima_1.jpg 運動のための自転車も、目的地が定まらぬと走る気にならず。昨年(2012)11月は、かつての東京湾汽船の発着場探しに「霊岸島」へ走った。同社発着場が「霊岸島から芝浦」へ移転したのは昭和11年。昔の「島の新聞」同年11月号は、芝浦埠頭の特集号になっていた。移転披露に芝浦芸者が総動員とあった。かくして今度は自転車で芝浦へ。検番跡も訪ねた。あたしはそのブログで「芝浦桟橋は昭和28年の現・竹芝桟橋完成まで使用」と記した。

 実は頭のどこかに「月島桟橋もあったよなぁ」との思っていた。そして今春の大島暮し中に読んだのが野口富士男『わが荷風』。そこから彼の作品群を読み始めれば、『耳のなかの風の音』に~昭和28年の大島より月島桟橋へ帰航途中のK丸から実父らが身投げした事件の顛末が書かれていて驚いた。

 書き出しは、こうだ。「昭和二十八年二月二十八日付夕刊各紙は、私の父の死をいっせいに報道した」。父は数え66歳、妻は47歳、末弟は小4生。T汽船(東海汽船)で大島に渡り、帰航の途次にK丸(菊丸だろう)の船上から投身。月島桟橋へ投錨したK丸の一等船室に三人の遺留品が遺されてい、父の遺体は三崎近くの海で発見。父との複雑な関係を述懐しつつ、事件の顛末が克明に描かれていた。

tukisimasanbasi_1.jpg 東京湾汽船(東海汽船)の発着場が「霊岸島~芝浦~月島~竹芝」と移ったのならば、やはり「月島桟橋」にも行かねばなるまいと、またも自転車を駆った。新宿~四谷~皇居~銀座と走って、新装・歌舞伎座前から勝鬨橋を越えた。「もんじゃ通り」とは反対の南端へ。幾つかのサイトに「昔の東海汽船の桟橋跡」として、幾本もの朽ちた杭が残る写真掲載あり。果たして、そこが探せましょうか。

 南端一帯は「月島埠頭」で、倉庫とトラックばかり。現南端はその後の埋立地で、昔はもっと内側だったのでは・・・、そう思って辺りを走りまわれば「勝どき5丁目緑地」なる小公園前に、東海汽船の桟橋残骸だという朽ちた幾本もの杭に辿り着いた。場所は「新月島運河」の「浜前水門」南、東京海洋大学海洋工学部の練習船「汐路丸」停泊の南側。斜め前には「浜離宮」。

 帰宅後に「勝どき5丁目緑地」を検索すれば、「東海汽船の跡地にできた公園」なる記述も見つけた。昭和11年に「霊岸島」から「芝浦」へ。昭和23年3月に「月島桟橋」へ、そして昭和28年に現「竹芝」へという変遷。これにて、自転車で辿る東海汽船の発着場巡り完了です。霊岸島、芝浦、月島それぞれ何度も訪ねたい素敵な風景が広がっている。


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