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大田南畝終焉の地の様変わり [大田南畝(蜀山人)関連]

 nanpohi_1.jpgブログを続けていると、先日の「東海汽船・月島桟橋」と同じく、過去記事のフォローをしたくなること間々あり。一昨年六月「大田南畝の終焉地」を訪ねるも、大工事現場になっていて落胆したと記した。

 過日、神田川沿いポタリングをしていたら「御茶ノ水」聖橋から昌平橋へ下る「淡路坂」際が様変わりしていた。高層ビル「solacity」なるが建ち、「蜀山人終焉の地」の史跡案内板(写真中央下)も復元されていた。

 案内板には大田南畝プロフィール紹介後にたった一行・・・「文化九年(1812)に当地に移り住み、文政六年(1823)に没するまで過ごしています」。物足りないので補足する。大田南畝は長年住み慣れた下級武士、御徒組屋敷(現・牛込中町)の家を出て、念願の持家を荷風生誕の小石川・金剛坂近くを下った崖上に「遷喬楼」を建てた。鶯の鳴き声が聴こえ、富士が見える風雅な家だったとか。

 そこから終の棲家として淡路坂の「緇林楼」へ移転。二階建ての二階十畳が彼の書斎・客間で当時の文人の溜まり場。斜め前に太田姫稲荷(今は移転)、前が御茶の水の渓谷、向こうに湯島聖堂の甍と森が見えた。「緇林楼」は湯島聖堂の「緇林杏壇」に由来。読書と狂歌、酒と好色にうつつを抜かす最中の「寛政の改革」で、一年発起で「学問吟味」に挑戦。その試験場が湯島聖堂だった。

yusimaseido_1.jpg 文政六年四月三日、妾(?)のお香を連れて中村座へ。三代目尾上菊五郎が挨拶に来て、翌四日に酒とヒラメの茶漬けを食い、六日に75歳で逝った。荷風『大田南畝年譜』には「生きすぎて七十五年喰ひつぶしかぎりしらぬ天地の恩」が紹介されていた。墓は小石川・白山の本念寺。様変わりした淡路坂だが、今も深い谷の神田川、その向こうに湯島聖堂が望めた。


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