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高田富士と富塚古墳 [江戸名所図会]

 早大9号館辺りに、江戸で最古・最高(10㍍)の「高田富士」があった。『江戸名所図会』の「高田富士」を読む。

 稲荷宮の後にあり。巌石を畳むて其容(そのすがた)を模擬す。安永九年庚子(かのえね)に至り成就せしとなり。此地に住める富士山の大先達藤四郎といへる者これを企てたりといふ。毎歳六月十五日より同十八日まで山を開きて参詣をゆるす。山下に浅間宮を勧請してあり。

 富士山の世界遺産登録には、富士信仰も考慮されたと思えるが、この江戸最古・最高の「高田富士」から各地の富士塚が広がったそうな。ここは元々が前方後円型「富塚古墳」跡。その地を利用して「高田富士」が聳えた。現「戸塚」名はこの「富塚」からと言われている。

tomidukakofunn1_1.jpg 昭和38年の早大キャンパス拡大によって、この「高田富士」「富塚古墳」「水稲荷」は現在地に縮小移転された。早大に渡すには氏子らの大反対もあったそうだが、どう強行したか。芳賀著『新宿の散歩道』には述べ六百人、ダンプカー六百台動員で移動、また藤四郎さんのお墓は宝泉寺にありと書かれていた。

 移転縮小の「高田富士」だが、地元住民は江戸から続く「高田富士祭」を今も大事に守っている。今年は明日・明後日(14・15日)の二日間だけ山開き。それを知らせるチラシ文の以下概要・・・。

 昔、植木職人・藤四郎は富士講の仲間と、白行布の身支度で富士山より運んだ岩土で富士塚を築き、大評判になった。それを真似て江戸中に富士塚が造られた。本物の富士山に登れぬ人達が大勢来て大賑わい。

 tomidukakofun2_1.jpgまた水稲荷(富塚稲荷に霊水が湧いて水稲荷の名へ)と併せて「富塚古墳」も縮小移転。現・水稲荷の裏に古墳と、その石郭利用の洞窟・小稲荷(写真下)も再現されている。ここには狐が棲んでいて「狐塚」、それが「戸塚」になったの説もあるとかで、古墳頂には狐が何匹も遊んでいた。(写真上)

 富士山には、十代の頃に所属していた社会人山岳会の冬山前の訓練で行った。五合目辺りで滑落時のピッケル、ザイルワークの練習を繰り返した。リタイア後の鳥撮り趣味で五合目「奥庭荘」に泊まった。そこの水場に来るホシガラス、ウソ、メボソムシクイ、ルリビタキ、ヒガラ、カヤクグリ、ヒガラ、キクイタダキを撮った。明日はいよいよ富士山頂上にアタックする。


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