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絵に誘われ「板橋驛」 [江戸名所図会]

itabasihidari_1.jpgitabasimigi_1.jpg 連日の猛暑が途切れ、涼しい風が吹いた。『江戸名所図会』の「板橋驛」の絵を見ていたら、人々の営みが愉しげなり。よしっとばかり自転車で「板橋」へ走った。新宿から明治通り、新目白通り左折し、山手通りへ。すぐに中山道。旧中山道に入った。

 生まれ育ちが板橋は北区寄り。板橋には思い出がある。ここで『江戸名所図会』の「板橋驛」を読む。中山道の首にして日本橋より二里あり、往来の行客常に絡繹(らくえき、人馬の往来の絶え間なく続くさま)たり。東海道ハ川々の差支多しとて、近世ハ諸矦を初め往来繁々れバ、傳舎(はたごや)、酒舗(さかや)、軒端(のきば)を連ね、繁昌の地たり。驛舎の中程を流るゝ石神井川に架する小橋あり。板橋の名はここに発(おく)るとそ。

edoitabasie_1.jpgitabasijeki_1.jpg ここで現「板橋」橋詰めの史蹟案内板の記述へ。・・・板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境までの20町9間(約2.2㎞)の長さがあり、この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌『江戸名所図会』の挿絵から、この橋周辺は非常に賑やかだったことが伺えます。

genitabasi_1.jpg 太鼓橋を渡る人、旅籠で寛ぐ人・働く人、忙しそうな通行人・・・ひとり一人の物語ができるような愉しい絵です。欄干から川面を見ていると、子供時分に七夕の笹を石神井川に流したこと、洪水で川岸界隈の家々が水没したことなどを思い出した。絵には橋下に釣竿を持った子と爺さんが描かれているが、あたしの子供時分はもう汚れて釣りができる状態ではなかった。今は泳ぐ魚が見えて、水鳥も戻っているようです。

 『絵本江戸土産』にも広重の「板橋驛」(写真中の左)あり。ここは「くずし字勉強」の場ゆえ、その絵に添えられた文章を書き写してみた。「廣原」「関東諸将」と読んだが、間違っていないだろうか。(長谷川雪旦の愉しい絵、クリック拡大でお愉しみ下さい)


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