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岩倉具視、馬場先門の本邸(ロ) [幕末維新・三舟他]

 隠居爺のお遊びの域で「岩倉具視邸」調べ。まずはネットから。これまたなんと云うことでしょう…。今年2月に新たな資料発見が報じられているではないか。

 「読売オンライン」の見出し。「豪華な岩倉具視邸、ネット競売で古写真発見」。本文は…倉持基・東大特任研究員が、ネットオークション上で写真裏側に「岩倉公邸ノ内」と記された写真を見つけた。写っている門や建物が、岩倉家旧蔵の絵図面や記録などと一致することから、1870年秋から84年頃まで岩倉邸だった建物の表門付近の写真とみられる。…とあって同写真が掲載されていた。

babasakigou_1.jpg 邸宅はもと忍(おし)藩(埼玉県)の藩邸で、具視の死後、一家は移転し、建物は壊されたとされる。岩倉家に関する画像資料を調査してきた研谷紀夫・関西大准教授は「旧岩倉邸は複数の絵図などに描かれているが、写真は極めて珍しい。旧大名屋敷を転用した厳かな門構えから、権勢の大きさを改めて認識できる」と話している。

絵図面があるなら誰も読めるように公開して欲しいもの。『岩倉具視関係文書・八』巻末には岩倉村の幽居旧跡図が三つ折りで挿入されているが、馬場先門内の屋敷図はどこにあるや。忍藩は松平下総守。「江戸切絵図」を見れば馬場先門を入ってやや右側に「松平下総守」(写真正面やや右側)にあり。現・皇居前は芝生と松の大広場になっているが、江戸時代はここに大名屋敷が連なっていた。

osihanteiato_1.jpg余談だが、あたしは冬になると飛来するミコアイサ(パンダ模様のカモ)を撮りに馬場先濠へ行く。写真下は馬場先門内から岩倉邸のあった辺りを写しています。また中央公論社『日本の歴史・第20巻』の「明治維新」編に、「明治5年ごろの外務省」なる写真あり。『東京都の歴史』なる書に慶応4年「東京府庁舎」イラストあり。どれもがネット競売の古写真「岩倉具視邸」と非常に似ている。門内には江戸時代の藩邸を改修した新政府官舎や維新中心人物の屋敷が建ち並んでいたのだろう。

岩倉具視がここに住んだのは、明治3年秋から明治17年。面倒だが明治維新を駆け足で振り返る。明治元年、江戸城は無血開城。10月に明治天皇が東京入り。江戸城が東京城、皇居へ。明治3年「神仏分離令」。各地で寺院破壊。明治4年「廃藩置県」。岩倉はその前年秋から「松平下総守」邸に入ったのなら、門内の大名邸はすでに蛻の殻…。

明治4年「岩倉使節団」欧米出発。全員洋装も岩倉のみ和服にチョンマゲ姿。110ヵ月の欧米の旅。価値観一変の日々だったに違いない。岩倉具視は帰国後に屋敷一部を洋風に改築したような気がするのだが…。

明治6年、西郷の征韓論に岩倉が猛反対。西郷に続き薩摩兵帰郷。政府は徴兵令発令など天皇制確立へ。明治7年正月、岩倉は天皇の晩餐に陪席後、馬車が赤坂喰違に来た所で襲われた。

岩倉具視「邸」が主テーマだが、次はこの襲撃事件を『岩倉公實記』から拾ってみる。

★スズキ様へ。コメント返信が不具合で、ここで返信させていただきます。小生が調べたのは図書館で借りて読んだ「岩倉公実記」(関連文書を含む)と、2013年2月の「読売オンライン」の記事です。ネットでヒットしなければ読売新聞の縮刷版で2013年2月分に目を通されるのがいいかと存じます。そこにコメントされた研究者らの名前も載っているように記憶しています。


コメント(1) 

コメント 1

スズキ

大変興味深い記事を有難うございます。
1879年7月時点の岩倉具視邸の場所と屋敷図を調べております。
岩倉具視邸で、米国元大統領グラント将軍へのお持てなしとして
能が演じられ、絵図があれば、その場所を確認出来たらと思います。
屋敷図(絵図)の情報は、どなたにコンタクトを取れば宜しいでしょうか。ご教示を頂きたく、宜しくお願い致します。

by スズキ (2016-08-08 15:13) 

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