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喰違遭難の和歌(ニ) [幕末維新・三舟他]

tomowaka2_1.jpg 前記『岩倉公實記』に喰違遭難の歌四首が掲載されている。「尓=に、王=わ、能=の、可=か」混じりゆえ、ここは全文を自己流にくずし字、注釈を添えて書いてみた。

 

 優雅な枕詞に霜、葛カズラを詠い込んで心の余裕、落ち着きをみせてはいるが…。兇徒九名は征韓論拒否に苛立つ不平士族で、三日後に逮捕、全員斬首。

 

 和歌を自分流に書き起こしてみれば、現場が見たくなる。冷房の部屋に籠る運動不足解消に自転車を駆った。新宿通りは四谷駅手前右折。右は迎賓館(当時は皇居火災で仮御所。岩倉はここを出て…)、坂を下り始めた所で、左のニューオータニへの道に入る。ここは江戸城外濠で最も高い地形で、両側は深い濠。今は右が弁慶濠、左が上智大グラウンド。喰違見附を入れば紀伊、井伊、尾張屋敷で「紀尾井坂」に出る。

 

 喰違見附を入って、正面のニューオータニを見上げれば360度回転の展望ラウンジあり。40余年も前のこと、あたしはPR会社勤務で、ここで月1「例の朝飯会」を開催。マスコミ人と企業トップに、時の人を招いてスピーチ聞きつつの出社前朝飯会。その100年前に、岩倉具視がここで襲われた。明治はそんなに遠い昔でもない。

 

kuitigai2_1.jpg さらに時代を遡って江戸末期の『絵本江戸土産』第八編に「喰違外」の絵(前回アップ)あり。描くは二代目広重か。こう書かれていた。…赤坂尓(に)あり、その容(さま)およそ〇〇〇〇尓て、封疆(どて)の古松幾千株を知れ須。千仭(せんじん)の御湟(おほり)坐下(みおろ)せバ、眩暈(めくるめき)がたく、他(た)にまた比すへき所なきの地なり。<〇〇は勉強不足で解読できず。どなたかご教授よろしく>

 

 もう一点の絵は「喰違外・赤坂遠景」。この崖から山の手になると、平坦な下町(赤坂方面)を描いている。さて、具視公は漆黒の闇ん中で襲われ、上智大側の崖へ落ちて命拾いしたらしい。この喰違見附は江戸初期に出来た外郭門で、石造りの升形門とは違って、絵図の通り土塁を筋違いにして直進を阻んだ造り。 

 

 現在はやや真っ直ぐだが、かつてL字型喰違構造だったことの名残りが残されている(写真下)。ちなみに岩倉具視が襲われた4年後、今度は紀尾井坂で大久保利通が暗殺された。江戸から明治へのギヤチェンジに犠牲は避けられなかったろうが、明治から昭和へ道を大きく誤る。時代の“喰違”なり。

kuitigaimituke_1.jpg 


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