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岩倉邸、新宿西口へ(ホ) [幕末維新・三舟他]

suwatennou_1.jpg 喰違で襲われた岩倉具視はその後… 政務復帰と同時に「佐賀の乱」。大久保利通の指揮で鎮圧し、江藤新平らを処刑。中途半端な台湾出兵。明治10年、西南戦争。翌115月に紀尾井坂で大久保が暗殺される。「具視實記」にはこう書かれている。…大久保利通、将(まさに)朝参セントス途清水谷ヲ過ク暴徒島田一郎等六人突然刀ヲ抜キ其馬車ヲ攢刺(サンシ)ス利通重創ヲ被ムリ遂に薨(こう)ス。

 

 明治13年、民権運動活発化。天皇制の揺らぎに岩倉らは憲法設立を急ぐ。『岩倉公實記』は憲法一色。明治14年「開拓使官有物払下げ事件」告発の民権派・福沢諭吉らと騒動を起こしたと大隈を追放。この政変で再び薩長が盛り返す(ここで間違えちゃったんだなぁ)。明治15年「軍人勅諭」。ドイツ憲法調査に伊藤博文が渡欧。明治16年、岩倉は京都復興計画に奮闘するも病状悪化。勅命でドイツ人医師ベルツが診るも食道ガン。天皇が岩倉邸に出向いて見舞うも同年520日に逝く。

 

 この辺は書いたらキリないゆえ、本テーマ「岩倉具視“邸”」に入る。同邸は岩倉死後に宮内省が買い取り壊すことになるが、『岩倉公實記』編纂の多田好問(宮内省御用掛)が頼み込んで譲り受け、新宿・角筈に移転したそうな。芳賀善次郎著『新宿の今昔』にこう書かれている。

 

 genkokuji1_1.jpg今の(新宿)西口広場は、松平摂津守などの下屋敷だったが、維新後に新宿駅寄りが岩倉公の所有となり「華竜園」という閑雅な庭園となった。庭には、西郷隆盛の征韓論で激論した時の建物を移して「隣雲軒」と名づけていた。ここには大正天皇がまだ東宮のころ、しばしばご遊覧なされたということである。明治三十年ごろ、同地は新宿駅構内拡張のため「華竜園」はとり払われた。

 

多田好問は、馬場先門内の屋敷の幾棟を新宿に移したのや。隣雲軒のみ、それとも他の建物も移したのだろうか。この辺の詳細、裏付けとれず。そして高田馬場の「玄国寺」の岩倉具視邸の登場になる。

 写真は、諏訪神社の明治天皇の明治1511月「近衛兵射的砲術天覧」碑。同年1月「軍人勅語」で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」で名実ともに「天皇の軍隊」へ。諏訪神社も菊の御紋となる。翌年7月に岩倉具視、59歳で没。そして諏訪神社の隣、元・別当「玄国寺」には岩倉具視邸が移築されている。その経緯の詳細記述探せず。どなたか御存知や…。


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