SSブログ

岩倉邸、玄国寺の和洋折衷の庫裏(ヘ) [幕末維新・三舟他]

genkokusyoin_1.jpg高田馬場「玄国寺」の書院(岩倉具視邸)の立派なことよ。鬼瓦は源氏の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」。岩倉具視は源氏・村上天皇の末裔ゆえの家紋。書院を表から拝見するとお寺の庫裏仕様だが、現本堂が二階になってい、階段上から庫裏裏を覗き撮れば、かくもお洒落な和洋折衷、洋館風(写真下)になっていた。

 

新宿区地域文化部刊の『新宿文化絵図』で鬼瓦のことを知ったが、同書はその後がいけない。こんな記述になっている。…その屋敷は、明治政府の最高指導者の地位にあった岩倉具視が晩年を過ごしたところです。庫裏(くり=僧侶居住の場所)の内部は、洋間とそれに続く和室の書院をもつ和洋折衷の珍しいつくりでなっています。成徳記念絵画館(明治神宮外苑)に展示されている明治天皇が岩倉具視の病気を見舞う図は、この書院が舞台になっているとされています。

 

「岩倉が晩年を過ごした」とは、どういう意か。この書き方では岩倉具視が馬場先門の本邸を出て、晩年をこの寺で過ごした…と云う意になる。馬場先門本邸の全容やいかに、また多田好問による角筈移転の詳細も知りたいが、新宿西口の明治資料を漁れど探せず。移築した「松平摂津守」の地は江戸切絵図で確認できたが、その先(明治)に至らぬ。多くが江戸時代から諸学校、淀橋浄水場の記述になってしまう。探索行き止まりに候。玄国寺の庫裏は馬場先門の本邸から移築されたものか、はたまた新宿西口(角筈)移築後、新宿駅拡張の明治30年頃に移築されたのか。この辺もどうもハッキリせぬ。

 

iwakurasyoin1_1.jpgこう考え込むと、思い出すことがある。2年前に石神井公園に鳥撮りに行った際に、三宝寺に足をのばして、同寺に移築された赤坂・勝安房(海舟)邸の屋敷門(長屋門)を拝見した。門をくぐり、しげしげと見上げていると、ご住職らしき方が「おぉ、お主も勝海舟になられましたか」と冗談を云いつつ、移築経緯をお話し下さった。「赤坂から三、四度も彼方此方へ移築されて、もう壊すしかあるまいという段階で、それはもったいないとここへ移築したんです」。

 

ちなみに諏訪神社は、前回に記した通り明治天皇が明治1511月に同神社から戸山ヶ原の近衛隊射的場開場式、及び射的砲術を天覧されて以来、社殿に菊のご紋を戴くようになった。当時の諏訪神社は大盛り上り。元別当・隣の玄国寺も“ウチも頑張らねば”ってことで、特別の縁もないが、壊される運命にあった岩倉邸一部を移築しただけなのか…。


 勝邸の例もあり、隠居爺の戯け推測が当たらないとも云いきれぬ。同寺の由来等の案内表示はあるも、岩倉邸に関しては何も記されていないんです。まぁ、ご近所ゆえに機会があれば玄国寺ご住職に移築の経緯を伺って、改めてご報告でしょうか。

 追記:同寺案内碑に文化財として「岩倉具視邸(現書院)」と明記されていた。

 


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。