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岩倉邸流転、西宮神社「六英堂」へ(ト) [幕末維新・三舟他]

iwakuranon2_1.jpg岩倉邸は高田馬場・玄国寺の他に、明治天皇が岩倉具視の最期を見舞ったという和室が、あの110日に福男を賭けて男らが脱兎のごとく走り競うことで有名な「えびす宮総本山・西宮神社」(兵庫県西宮市)境内にも「六英堂」の名で保存されている。それまた数奇な運命を辿ったようで、西宮神社のサイトでこう紹介されている。

 

 

 具視公薨去後、私邸は宮内省が宮城前広場整備のため買い上げ取り壊されるが、天皇行幸跡と云うことで、有志によりこの建物だけは新宿の国鉄敷地内に保存される。(ここまでは新宿郷土史誌と似ている。別サイトでは新宿からさらに渋谷に移築されたとの記述もあり。そして多田好問の没後)、大正11年に新たな保存先として、川崎造船所の創業者・川崎家の神戸市布引の屋敷に引き取られる。ここで「六英堂」と名付けられた。初代・川崎正蔵は薩摩出身で大久保公の薫風を受けていて、大久保公の縁で引き受けられたようだ。戦後、川崎家の手を離れて布引の敷地に残されていたのを、昭和52年に西宮神社に移築保存された。

 

写真を拝見すると、あの明治天皇が岩倉公を見舞う絵と同じ和室が保存されているらしい。まぁ、岩倉邸一部がそんな数奇な運命を辿って兵庫県「西宮神社」で保存。新宿「玄国寺」の庫裏もまた数奇なドラマを秘めているやも知れぬ。

 

ちなみに岩倉家の菩提寺は京都市北区西賀茂「霊源寺」らしいが、具視公のお墓は品川「海晏寺」にある。何故なのだろう。岩倉公は我が国最初の国葬で、斎場は武蔵国荏原浅間台。隣(後ろ)が「海晏寺」なんですね。式次第、墓誌ノ事…などが「岩倉公實記」に詳細に記されていた。

 

掃苔のサイトを拝見すると「海晏寺」のその墓地には入れず、遠くから覗けば、侵入者を威嚇するかのように、台座に錆びた機関銃が設置されていると写真紹介されていた。“孝明天皇暗殺”の噂に対処した策なのかしら…。

 

『岩倉具視関係文書・八』の巻末「解題」に森谷秀亮・文あり。こう書かれていた。…政情が緊迫を告げ、権力の座にあるものの病死に際しては、流言蜚語が乱れ飛んだことが多い。実証主義的立場にある私としては、孝明天皇死因に関する風説を肯定することにもちろん躊躇し、岩倉一派を毒殺下手人とみる論の如きは、岩倉の行動に疑惑を抱くものが作為した誣言であると極限するに憚らない。

 

この辺の関係資料も辞書を引きつつ読んだが、歴史学者でも病理学者でもないただの隠居爺ゆえに「岩倉邸」の探索だけに止め、それ以上は立ち入らぬことにする。まぁ、ここで一応エンド。

 岩倉邸の参考資料:「岩倉公實記」、「岩倉具視関係文書」、佐々木克著「岩倉具視」、永井路子「岩倉具視~言葉の皮を剥きながら」、小説で堀和久「維新-岩倉具視外伝」、芳賀善次郎「新宿の散歩道」「新宿の今昔」、笠原英彦「明治天皇」、「日本の歴史・明治維新」「新宿文化絵図」「江戸切絵図集」他。


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