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(1)荷風~南畝~京伝へ誘われ [江戸生艶気蒲焼]

kyoden1_1.jpg『黄表紙』はひらがな中心ゆえ、どうにか読めるようになった。目下は山東京伝『江戸生艶気樺焼(えどうまれうはきのかばやき)』(絵は京伝自身の画号で北尾政演、天明五年・1785年、蔦屋重三郎板)を愉しんでいる。「どうにか読める」だけではつまらぬゆえ「筆写」しつつ、その文章を味わい親しんでいる。

 まずはじめに「山東京伝」への興味経過から記す。そもそもは「永井荷風」好き。荷風は「大田南畝」好きで、彼の年譜も作成。南畝の人生が面白く、あたしも南畝好きになった。南畝は牛込御徒町(現:新宿区中町)生まれ。荷風は欧米から帰国後は大久保余丁町の父の家に在住。共に“新宿仲間”。

南畝は十八歳で平賀源内の序文で『寝惚先生文集』でデビュー。漢詩、狂歌、黄表紙、洒落本で江戸後期代表の文人となり、「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた。ずっと牛込御徒組の小さな家に在住も、56歳で初めて自分の家を小石川・金剛坂に持った。偶然ながら荷風生誕地も同じく金剛坂。大田南畝が黄表紙評判記『岡目八目』で、山東京伝『御存知商売物』の絵と文を絶賛して、京伝人気が不動になった。京伝は南畝より十二歳下で深川木場生まれ。十三歳から銀座に移って浮世絵を学んで画号は北尾政演。

 

 寛政改革が彼らを襲った。南畝は吉原「三保崎」を身請けして妻妾同居を始め、狂歌仲間と連夜の宴。危険を察知して仲間と交際を絶って「学問吟味」合格で難を逃れた。一方、京伝は手鎖五十日の刑。版元・蔦屋重三郎は財産半分没収。寛政五年、煙草入店を開店直後に、妻お菊死亡。寛政十二年、お菊と同じく吉原の玉ノ井(百合)を妻に迎える。京伝の机塚は浅草に、墓地は回向院(写真)。話が長くなるのでここで止める。

 

 かくして荷風~南畝~山東京伝の『江戸生艶気蒲焼』に至る。より京伝に近づくべく遊びの始まぁ~り。ここで当シリーズは小学館『日本古典文学全集』の「黄表紙・川柳・狂歌」編収録の山東京伝作・北尾政演画(京伝の画名)『江戸生艶気樺焼』、浜田義一朗校注(昭和46年刊)を手本に筆写しつつ、小池藤五郎「山東京伝」、小池正胤「反骨者大田南畝と山東京伝」、森銑三の京伝関連随筆、佐藤至子「山東京伝」をはじめとする京伝関連書・関連文を参考に、自分調べも加えた自分流解釈でやってみる。

目的の第一は覚えつつある「くずし字」を忘れぬこと。第二は山東京伝を身近に感じたく。第三は江戸文化を知るため。絵は鳥橋齋栄里。京伝の四十代の顔。


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