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(11)京伝、蔦重は吉原案内人 [江戸生艶気蒲焼]

kucyami1_1.jpg 艶二郎、く志やミ(くしゃみ)をするたび、せけん(世間)でおれがうわさ(俺が噂)をするだろうとおもへども、いつこう二(一向に)町内でさへ志らぬゆへ、此うへは女郎かいをはじめてうきな(浮名)をたてんとおもひ、中の丁うハきまつや(松屋)へきたり。わる井志あん、きたりきのすけ(北里喜之介)などかミ(神)に徒(つ)れ、いつぱいに志やれる。

 女「せ川(瀬川)さんとうたひめ(歌姫)さんのうちをききにつかわしましたが、さつき小まつや(松屋)で、このもをミかけましたから、うたひめさんㇵてつきりおわる(悪)うござりませふ」「こびき丁(木挽町)でかうらいや(高麗屋)がぼくが(墨河)さんをするそうでござりますね」

 ★「かミに徒れ」は「神に連れ」・校注で「かみ=素人の太鼓持ち、取り巻き」とあり。さて、素人の太鼓持ちは、落語によく登場の「野幇間(のだいこ)」だろう。首をひねりつつ古語辞典をひけば、幾つもの意のひとつに、遊里語。大尽=大神にかけて、大のつかぬ「神」は取り巻きの意とあり。

 ★「瀬川(おす川)」は松葉屋(松田屋)の実在の名妓。文京(松前志摩守の次男・旗本三千石池田頼完)が五百両で身請けした。また当時の狂歌、戯作者らは大名御曹司、下級武士、町人、妓楼主人、遊女などが狂歌名で共に盛り上がる世界が形成されていた。京伝らの仲間の妓楼・扇屋の主人が墨河夫妻で、そこの名妓が滝川と花扇。彼女らも加藤千蔭の門下。ちなみに狂歌では吉原・大文字屋主人の加保茶元成(かぼちゃのもとなり)が有名で、妻は秋風女房。他に町民では湯屋の元木網(もとのもくあみ)、妻が智恵内子(ちえのないし)。裏長屋の大屋が大屋裏住(おほやうらずみ)、本屋の浜辺黒人、旅籠屋の宿屋飯盛、汁粉屋の鹿都部真顔などなど。

 ◎これは余談だが、いま明石散人『東洲斎写楽はもういない』を読んでいるが、まず始めに「東洲斎」は「トウジウ斎(とうじゅうさい)」と読まれていたと、えらくもったいぶって書いていた。「州」がシウなので「洲」もシウと間違えて読まれている。そして史料より「東洲」がジウと読まれた証拠を提示し「トウジウ斎」。だが狂歌の創始者・唐衣橘洲については触れていない。この名ならフリガナ付き史料もあろうに。「カラゴロモキツシウ」だろう。歴史検証を小賢しい小説仕立て。途中だが読むのをやめよう。

 ★京伝の最初の妻は扇屋の菊園(お菊)。お菊が三十歳で亡くなり、七年後に迎えた二度目の妻が玉屋の玉の井(百合)。ゆえに京伝が記す吉原関連書は常に遊女側に立って書かれているそうな。

 ★「中の丁」は吉原の真ん中を通る道。版元・蔦重も吉原生まれで、大門前に本屋を開いて『吉原細見』(ガイドブック)の成功から江戸の出版界へ。現・吉原跡を歩けば当時の道の名残りあり。また一画がトルコ(特殊浴場)街になっていたりする。

 ★「木挽町で高麗屋が墨河さんをする」は校注で、森田座で四代目・松本幸四郎が、墨河が素人芝居で「工藤」を演じたことから、「工藤」主役の『初暦閙(にぎわい)曽我』を上演ってことだとある。話が彼方此方にバラけたのでここまで。


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