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ひと魂でゆく気散じや夏の原 [北斎・広重・江漢他]

hokusaihaka1_1.jpghokusai2_1.jpg 表題句は葛飾北斎の辞世句。「気散(きさん)じ」=気晴らし、気楽、のんき。気散じ者はのんき者、楽天家(古語辞典)。まぁ「死ぬなんざぁ、そんなもんさ」の達観した心意気と察した。

 荷風~大田南畝~山東京伝、そして馬琴、写楽を読めば、次は当然ながら北斎になる。かくして北斎の画集二冊に、諏訪春雄『北斎の謎を解く』、永田生慈『葛飾北斎』、そして高橋克彦「北斎殺人事件』、桜田常久『画狂人北斎』(昭和48年に東邦出版社刊)を読む。桜田著は評伝小説で、実に良く書けている。どんな作家かしら。あら、昭和15(1940)年下半期受賞の芥川賞作家だった。読んだ後は、いつものこと掃墓と相成候。

 時は春爛漫。あちこちの桜見物を兼ねて自転車で元浅草・誓教寺の北斎のお墓を訪ねた。大久保から自転車ルートマップで約9キロ、36分。上野駅から東に延びる仏具屋通り(浅草通り)の南側。清洲橋通りの白鴎高校近く。この辺は寺院が多く昔は「新寺町」。誓教寺も拝領地が651坪という広さだったらしい。今はビル街にお寺が多く、また懐かしい二階建て三軒長屋が幾棟も残っていた。

 誓教寺には写真の「葛飾北斎翁」胸像、生誕200年記念碑、そして庫裏脇を抜けた奥の小さな墓地にお墓があった。胸像は平成2年建立。何歳頃の北斎か? どの絵を参考にしたや? 記念碑はネット調べで「日本美術年鑑」収録の美術界年史がヒットし、こうあった。まず昭和35年(1960)に全国各地で「生誕200年展」が行われ、9月24日に誓教寺で記念碑除幕式。碑は縦1米、横85糎の赤ミカゲ石。富士をかたどった白ミカゲ石の板をはめこみ、北斎の二字を彫り込んだもの、とあり。

hokusai200_1.jpg この二字は北斎の落款(署名)から採ったかと画集を見たが、落款とは別書体。誰かの揮毫だとしたら味気ないこと。お墓は2007年のブログを拝見したら写真の覆堂なし。墓石正面に「画狂老人卍」と川村氏。右側面に表題の辞世句が彫られているそうだが、今は朽ちかけた堂で側面を見ることはならず。墓石の痛みは戦災ゆえだろうか。

 傍に東京都教育庁のポストカードあり。こう記されていた。幕末まで北斎の父と合葬されていましたが、現在の墓は、後に他家の養子となっていた次男の崎十郎(徒目付=隠密活動もした)が建てたとも、その娘の白井多知が建てたとも言われています。ということは、この墓の奥に北斎(川村家)親族のお墓があるのかしら。

 なお生誕地・本所の割下水の南側が「北斎通り」で、その近くに目下「すみだ北斎美術館」が建造中らしい。約17億円で関連資料を収集。総工事費が膨らんで来年完成が2016年完成にずれ込んでいるとか。


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