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(18)手水場の吊り手洗器と手拭い [江戸生艶気蒲焼]

uwaki15_1.jpgゑん二郎ㇵやくしや(役者)・女郎などのこゝろいき(心意気)にて、ゑこういんとうりやう(回向院道了)のかいてう(開帳)へ、ちやうちん(提灯)をほうのう(奉納)せんとおもひ、うきなとてまへ(浮名と手前)のもん(紋)をひよくもん(比翼紋)ニつけさせるちうもん(注文)にて、きたのきの介うけあいて(北里喜之介請け合いて)、たまちのてうちんや(田町の提灯屋)へあつらへける。中や(屋)へㇵちやうづてぬぐい(手水手拭)をあつらへ、これもひよくもん(比翼紋)にて、志よ志よ(諸所)のはやりがミ(神)へずいぶんめニたつやうにほうのう(目に立つように奉納)する。これもよつぽどのいたこと(痛事=出費)也。もちろん何のぐわん(願)もなけれども、このやうニ奉納ものㇵ、なるほどうわきなさた(沙汰)なり。

喜之介「とんだいそぐ(急ぐ)ね。ほねㇵ志げほね(骨はしげ骨)にして、かわ(側)ゝほんぬり(本塗り=漆塗り)ニ、志んちう(真鍮)のかなもの(金物)、いくらかゝつてもいゝから、ずいぶんりつぱに志てへの」 提灯屋「ちときう(急)ニㇵできかねます。このあいだㇵよしわらのさくらのちやうちん(吉原の桜の提灯)をいたしております」

 「回向院道了の開帳」校注では、両国東詰めに建つ回向院の道kyoudenekoin.jpg了尊の出開帳~と素気ない。ここはやはり回向院は京伝の菩提寺と一言あるべきだろう。本来は回向院奥の墓地内にあったが、今は「鼠小僧の墓」の近くに京伝(岩瀬醒)及び山東京山(弟)や岩瀬氏之墓が移されている。(写真)ちなみに京伝没は文化十三年(1816)、56歳だった。大田南畝の追悼狂歌は「山東の嵐に後の破れ傘身は骨董の骨とこそなれ」。戒名は「弁誉智海京伝信士」。

 「比翼紋」も校注では、あっさりと「男女の紋を重ねたもの」とあるが、「相愛男女の」と艶っぽく説明していただきたい。「田町」は港区芝の田町ではなく、吉原の日本堤下(山谷堀と浅草の間辺り)のあった町。正月心中のカワラ版を読んでのあたしの句「元旦にひよくれんりのなれのはて」。

 「手水手拭」は懐かしい。あたしらの子供時分には、便所脇の廊下外に「吊り手洗い器(バケツの下の棒を上に突っつくと水が出て手を洗った)」があり、手拭いも吊るされていたっけ。あれは水洗便所が普及して姿を消した。「ほねㇵ志げほね=骨はしげ骨」の「しげ=繁=密」にしての意だろう。


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