SSブログ

(21)芸者に跣参りをさせる [江戸生艶気蒲焼]

hadasimairi_1.jpgやげんぼり(薬研堀)のなあるげいしや七八人、ゑん二郎ニやとわれ、かんどう(雇われ勘当)のゆ(許)りるよふ二と、あさくさのくわんのん(浅草の観音)へはだしまいり(跣参り)をする。なるほど、はだしまいりといふやつが、大かたㇵ、うわきなもの也。 芸者A「ゑゝかげんになぐつて、はやくしまわをねへ」 芸者B「十どまいりくらいでいゝのさ」

 「薬研堀」は現・東日本橋辺り。両国橋西詰=柳橋の南側で今は「薬研堀不動尊」がビルの狭間に建っている(写真下)が、当時は料理屋が多く、多くの芸者が住んでいた艶っぽい町だったらしい。「ゆりるよふに=許りるように」で、「許(ゆ)」の活用<り・り・る・るる・るれ・りよ>。「はだしまいり=跣参り」。「なぐつて=殴る、擲る=投げやりにする、念をいれない」(古語辞典をひくと、出典元『江戸生艶気蒲焼』がかなりある)

 絵は三人の芸者の裸足参り姿。石畳の足許に銀杏の葉が落ちていて、季節は秋。芸者の後ろは楊枝の柳屋。確か「浅草奥山銀杏の木の下の楊枝の柳屋のお藤」は看板娘。「蔦屋およし」「笠森お仙」と共に浮世絵に描かれたいる。

 もう一つ注目は、芸者の「おはしょり」。裾引き着物で跣参りだから、芸者は思い切り「おはしょり」をとって、腰下辺りに腰紐(赤色に塗った)で止めている点。これが現・着物の「おはしょり」の原型だろう。こんなことに気付いたも、あたしは若い時分にH社とA社の「着付け教室」の教科書を作ったことがあってのこと。

yagenbori_1.jpg 余談。渡辺保『東洲斎写楽』では、大田南畝が始めて各氏に延々書き継がれてきた『浮世絵類考』の、斎藤月岑が突如「写楽は俗称・斎藤十郎兵衛、居・江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者なり」と増補する以前の、文政四年の風山本「~東洲斎と号す俗称金治。やけん堀不動尊通りに住す」の篠田金次(治)が写楽だと記していた。金治は旗本の息子。実家騒動、放蕩、家出、漂白、食客、そして俳諧、狂歌、地誌、台本、作詞、滑稽本、合巻、読本、人情本作者で、絵も描いた超マルチ人間とあった。もうひとつ、これまたどうでもいいことだが、同著は昭和62年刊で、付録に現・法政大総長の田中優子が著者と対談していた。ショートヘアの若い助教授時代の写真が載っていた。あたし、江戸文学(文化)の田中優子先生のファンなんです。


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。