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(25)身ぐるみ剥がされて [江戸生艶気蒲焼]

oihagi_1.jpgさいごのば(場)も、いき(粋)なぱつとしたところとの事にて、三めぐりのどて(三囲の土手)ときめ、よがふけてハきミがわるいから、よいのうちのつもりにて、ゑん二郎につとめたるちやや・ふなやど・たいこまつしや・げいしや(茶屋・舟宿・太鼓末社・芸者)ども、だいだいこう(太々講)のおくりのやうニ、はかまはおり(袴羽織)にて、大川ばしまでおくり申(もうし)、たゞのやくし(多田の薬師)のあたりにて、ミなミな(皆々)にわかれ、 ゑん二郎ㇵ日ごろのねがいかないしと、こゝろうれしく道行をしてゆき、こゝこそよきさいごば(良き最期場)と、はくおきのわきざし(箔置の脇差)をぬいて、すでにこふよとミへ、なむあミだびつといふをあいづニ、いなむら(稲叢)のかげより、くろしやふぞくのどろぼう(黒装束の泥棒)二人あらわれいで、ふたりをまつぱだかにしてはぎとる。

泥棒「わいらハどふで志ぬものだから、おいらが、かいしやく(介錯)してやろう」 艶二郎「これこれ、はやまるまい。われわれハしぬための志んぢう(心中)でハない。ここへとめて(留め手)がでるはづだ。どふまちがつたか志らん。きものハミんなあげましやうから、いのちハおたすけ・おたすけ。泥棒「此いご(以後)こんなおもいつきハせまいか・せまいか」 艶二郎「もうこれにこりぬ事ハございません」 浮名「どふで、こんなことゝおもいんした」

 「三めぐりのどて」は三囲神社脇の土手。ここの景色は先日、自転車で訪ねたので<新宿発ポタリング>で後日記す。「太鼓末社」は校注で「太鼓持ち」。「太々講」は仲間でお金を積み立て合って、籤当たりの人が伊勢参りをすること(古語辞典)。子供時分に祖母は近所(町内)のオバさんらと「無尽講」をしていた。今はあたしのマンション住民でも名を知らぬ方が多い。「~講」も昭和中頃に死語になったか。「大川ばし=吾妻橋」。「多田の薬師」は吾妻橋東詰より川下の現・東駒形にあった東江寺。昭和になって現・葛飾東金町に移っている。

 艶二郎らは吉原をに抜け出た後は、舟で吾妻橋、さらに川下の東駒形辺りで送りの皆と別れて、今度は川上の三囲神社に向かって歩いたのだろう。下ったり上ったりして、三囲神社の土手でコトに及ぼうとして、本当の泥棒に襲われる。「もうこれにこりぬ事はござりません」は否定のダブル表現。文章はひらがなのくずし字を漢字変換すれば、充分に意がわかる。さて、この泥棒らは艶二郎が仕組んだ輩ではなく~。(模写にも慣れてカラー筆ぺんまで使い始めました)


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