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(26)素っ裸の艶二郎と浮名 [江戸生艶気蒲焼]

hadaka_1.jpg仇気やゑん二郎 浮名やうきな 道行興鮫肌

乁朝に色をして夕に死とも可なりとハ、さてもうハき(浮気)なことのハ(言の葉)ぞ。それハろんご(論語)のかたいもじ、これハぶんご(豊後・節)のやわらかな、はだとはだか(肌と裸)のふたりして、むすびしひも(紐)をひとりして、と(解)くにとかれぬうたがひハ、ふしん(普請・不審)の土手のたかミから、とんとおちなバ名やたゝん。どこの女郎しゆ(衆)かしらミひも(虱紐)、むすぶのかミ(結びの神)もあちらむかさん志よ、じやうゆのやきずるめ(醤油の焼きスルメ)ぴんとひぞるも、今ハはや、むかしとなりし中の丁、そと八もんじ(外八文字)もこぐなれバ、うち七もんじ(内七文字)ニたどりゆく。

なミだにまぢる水ばな(涙に混じる水洟)に、ぬらさんそで(袖)ハもたぬゆへ、下たのおびをぞ志ぼりける。身に志ミわたるこちのかぜ(東風)に、とりはだだち(鳥肌立ち)し此素肌。とのごのかほ(殿御の顔)ハうすずミ(薄墨)にかくたまづさ(玉章)とミるかり(雁)に、たより(便り)きかんとかくふミ(書く文)の、かなでかなてこすそもよふ(裾模様)。ゆかりのいろも七ツやの、なになかれたるすミだがわ(名に流れたる隅田川)。たがいにむりをいをざき(五百崎)の、かねハ四ツ目や長命寺。きミにハむねをあくる日の、まだ四ツ過のひぢりめん(緋縮緬)。ふんどしなふがきはるの日の、日高のてらにあらずして、はだかのてやいいそぎ行引三重。「うしハねがいからはなをとふす(牛は願いから鼻を通す)」と。ゑん二郎がわるいあんじの志んぢう(心中)。此とき世上へぱつとうきなたち(浮名立ち)、志ぶうちハのゑにまでかいてだしけり。

艶二郎「おれハほんのすいきやう(酔狂)でした事だからでぜひがないが、そちハさぞさむかろう。せけんの道行ハきものをきてさいごのばへ行が、こちらのハはだかでうちへ道行とハ、大きなうらはらだ。ひちりめん(緋縮緬)のふんどしがこゝではへたのもおかしいおかしい」 浮名「ほんのまきぞへでなんぎさ」  

  『江戸生艶気蒲焼』を代表する絵。この絵を何度も目にしてきたが、実際に文を筆写、絵を模写でグンと身近になった。身ぐるみ剥がされた裸の二人。土手の向こうに三囲神社の鳥居上部が見え(模写は省略だが、土手の右に描かれている)、艶二郎のふんどしのながいことよ。「緋縮緬のふんどしが、こゝで映へたもおかしい」と、それでも覚めた台詞の艶二郎。カラー筆ペンで赤く塗ってみた。

 冒頭の「乁朝に色をして夕に死とも可なり」は孔子の教え・論語の漢文「朝聞道。夕死可矣=朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」。その意は「ことわざ辞典」で、朝に人の道を悟れバ、夕に死んだとしても後悔なし。つまり答えは、そう簡単に得られるものじゃないという教え。「矣」が読めず。(イ)で確認断定の意で、読まなくてもいいらしい。

 「二人して結びし紐を~」は伊勢物語の一節。「とんとおちなば~」も豊後節の一節とか。この辺は勉強不足、無知識で、充分な鑑賞とは参らぬ。「しらみ紐=虱をとる紐」は「結びの神もしらん」の洒落だそうな。不勉強と謙虚に言ったが、当時は教養として読むべき本が決まってい、かつ少なく、これは狂歌もそうなんだが、それらのもじりの洒落ゆえにクスッとわらえたのだろうに。今日は情報が多過ぎて、なかなかそこまでに至らぬ。あたしの文学体験だって、そもそもは翻訳の古典世界文学全集、現代世界文学全集だったのだから。お手上げは勘弁していただこう。

 「醤油の焼ずるめ、ぴんとひぞる(乾反る)も~」。この辺の下世話文句ならグッと親しみが湧いてくる。スルメが反るようにすねたり怒ったりすること。「外八文字=花魁の足運び」。「七ツ屋=質屋」。ちなみに京伝は深川の質屋の息子だった。「五百崎=向島の古称」と校注にあった。「鐘は四ツ目や長命寺」。長命寺といえば門前の「桜もち」だが、何度か墨堤散策をしたが、その度に休みだったり売れ切れで、未だいただけない。

 「長命寺」の時の鐘がが出てくれば「長命丸」も出てくる。これは両国米沢町(東日本橋の薬研堀)の媚薬・秘具(張形=帆柱など)販売の四ツ目屋が売り出して大人気になった「長命丸」。陰茎に塗る強精薬というより勃起持続の淫薬で「江戸のバイアグラ」。四ツ目屋は古今亭志ん生の「鈴ふり」のまくらにも出てくる。「虱紐」は芝金杉通りの鍋屋源兵衛の店が売り出した虱除けの薬を染み込ませた紐。「虱除けの紐=鍋谷紐」。ちなみに馬琴が売っていたのは「奇応丸」。

 「四ッ過ぎの緋縮緬」とは何ぞや。古語辞典で「四つ=午前十時」で昼前ゆえまだ古びていないの意。浮名が身請けされてまだ十時。これまた出典は当箸より。「日高の寺にあらずして裸の手合い~」はひだか・はだかの語呂合わせ。日高の寺は道成寺。「三重」は校注で浄瑠璃終末部の三味線の手とか。京伝は絵を習い始める前に長唄、三味線を習っていた。「牛は願いから鼻を通す」は、自分から望んで苦しみや災難をうけるたとえ(ことわざ辞典)。以上、浄瑠璃を真似た文なのだろう。さて、残すは最後の一頁だけ。


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