三囲の時代巡りを苔が知り(2) [新宿発ポタリング]
大鳥居が柵で囲まれていたので、東南方向から新しい鳥居をくぐって境内に入った。まず其角の句碑、三越のライオン像に迎えられて本殿へ。その裏に手水舎と閉じられた鳥居。宮司さんの奥様だろうか、境内掃除の手を休めて説明して下さった。
「四、五年前に賽銭泥棒が頻発したんです。だから江戸時代から多くの浮世絵に描かれた大鳥居の門を閉じ、南側に新たな門を造ったんです。ですから新門から入ると、一番奥に手水舎がある変な具合になってしまった。昔のことですか。そう、私が子供時分はまだ周りがぐるっと池だったんですよぅ」
境内の史跡案内板に明治、大正時代の絵と写真があって、奥様が子供時分はそれら風景と余り変わっていなかったらしい。京伝、歌麿、鳥居清長ら多くの浮世絵師が描いた景色は、いつから失い出したのだろうか。調べ好きの虫が騒ぐ。
墨堤は昭和34年の伊勢湾台風被害後に直立堤防(カミソリ堤防)工事が始まって、昭和60年に完成。首都高6号向島線の工事は昭和46年に始まって、昭和57年に全線開通。だがカミソリ堤防の悪評高く、昭和55年から親水テラス整備が順次行われて、浅草辺りが現在の姿になったのは最近のことでは。まだコンクリートの白が眩しい。まぁ、ずっと重機が唸りっ放し。今は三囲神社より人々は東京スカイツリーに押し寄せている。あたしは東京生まれだが、まだ東京タワーにも上っていないので、スカイツリーは遠くから眺めるだけで終わりそう。
そんな昔ばなしをしつつ、其角「雨乞いの句碑」を見た。田の中にあった「田中稲荷」が有名になったのは、其角の雨乞い句による。「遊ふた地(夕立)や田を見めぐりの神ならば」。そして本殿奥には苔むした多くの碑群あり。その中から、もう一つの其角句碑「山吹も柳の糸のはらミかな」。京伝と同時期の狂歌の朱楽管江(あけらかんこう)の辞世碑もあった。「執着の心や娑婆に残るらむよしのの桜さらしなの月」。
江戸を懐かしんでいたら、散策のお年寄り一団が来て墨田区の行政批判や、スカイツリーの東武電車が〝買い出し電車〟時代の酷かったことなどで盛り上がってきたので、あたしは三囲神社を後に、大川を渡って台東区・浅草寺に向かった。山東京伝の机塚に再会し、人気のビッグメロンパンをかかぁの土産に買って帰った。
写真上は、土手から鳥居上部が覗く江戸時代と変わらぬ構図のカット。だが背後は車道で、頭上は首都高。写真下は新しい鳥居と門。
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