SSブログ

7:普請が続いた内藤新宿 [甲駅新話]

koueki5_1.jpg全会話文だが〝棒うち〟表記。ここからは現・会話文の行替え体裁で書き直し、文中に調べた注(主に古語辞典)や漢字表記を( )内に挿入。

 

<金>さあ是からハ日かげもの(日陰者=公然と世間に出られない者)だ。~と、あせ手ぬぐひ(汗手拭)を出して笠ひもへはさみ、鼻から口をおゝひかくし人目を志のぶといふ身をする。

<金>なぜそふなせんす。(んす=ますの転。武士なのに遊里特有言葉を遣っている)

<谷>そこいらぢうの女郎共がミんな知て居(いる)から、見付るとやかましくつてならねへ。アノ今のやつが見つけやアしなんだか。(谷粋、相当の遊び人ですね)

<金>イイエあれハ何屋へ。(へ:疑問詞)

<谷>いづみやさ。

<金>わたし共が友達が、和泉屋へ往(いつ)たといひやしたつけ。

<谷>それは小いづミだろう。和泉屋も大見せと小ミせと二軒あるよ。

<金>大見せと小みせハどふして知れやすねへ。

<谷>めゑら戸(めいら戸=舞良戸:引き違い戸のように多くの細い横桟が入った板戸)が大ミせ、から紙が小見せさ。

<金>何所がへ。

<谷>見せの後ロがさ。

<金>ひと志きりさびれたと聞やしたが、そふもごぜんせんね。

<谷>ナニサぜんてへ(全編が会話文で〝江戸弁〟の宝庫です)初中(初めごろ)がさびれはしねへけれども、初而(しょて=最初)は普請が悪かつたから、どの内も大かた普請を仕直して引越引越して、その跡が明店(あきだな)で有た物だから、知らねへやつらが見て、悪く評判をしたのさ。ホンニ上総屋の普請を見なすつたか

<金>ナニサついぞこつちの方へㇵめへりやせん

<谷>聞ねへ。階子(はしご、梯子)が黒ぬりだあナ

<金>とんだ事たね。何処かた出た内でごぜえんすへ

<谷>氷川から来たよ

<金>どれがそだね

<谷>ソレそこの左のさ

<金>ホンニ良へ二階だね。ソシテあの寺は何ンといひやす。大きな物でごぜんすねへ。

<谷>あれが大宗寺さ。庭が又とんだ大そうじだよ。

<金>泉水(せんすゐ)でもあるかね

<谷>泉水もあるが畑もある。おそろしく廣いよ

<金>見られやすかへ

<谷>随分見られるとも。二分いたむ(払うと)と、女郎をつれて行かれるハ(当時の1両は128,000円。1両=4分で2分だと62,000円? 校注では1万円とある)

<金>それはおつ(乙:趣があること)だな

<谷>せん(先、以前)どもつれて往(いつ)て、笋(たけのこ)を盗んだり何かして、とんだおもしろかつたよ。マア何ンにしろ一盃(いつぺへ)のんで往ふじやアねへか ~と坂見屋といふ茶屋へはいり

 

naitoukehaka_1.jpg★大宗寺のメモ:大宗寺は家康の家臣・内藤家(元禄四年に信州高遠藩主。現・新宿御苑一帯が下屋敷)の菩提寺。江戸六地蔵、閻魔像、脱衣婆(おばば)像、三日月不動明王などがあって、縁日は大賑わいだった。二代清成はキリシタンだったらしく切支丹灯篭などもある。二丁目の「新宿公園」も同寺庭園一部で池があった。同池が雑司ヶ谷まで流れるカニ川の水源。若い頃の「新宿公園」は、まだ池があったように覚えている。
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。