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11:メモ「堀之内・妙法寺」 [甲駅新話]

myouhouji1_1.jpg 冒頭で「金公:堀之内に籠ったとも言われやすめへ」とあり、(9:)でも「それでもお連立(つれだち)なすつて堀之内へお出なさつたじやァござりませんか」なる台詞があった。これは杉並区堀之内・妙法寺のことで、そこへ〝厄落としに行く〟が内藤新宿で遊ぶ言い訳(誤魔化し)だったそうな。「浅草の観音様にお詣り」と言って吉原で遊ぶのと同じ。

 恥ずかしながら、この歳まで「堀之内」知らずで、さっそく自転車を駆ってみた。実況見分ったこと。実は最近まで「目黒不動尊」も知らなかった。『江戸名所図会』を見て初めて訪ねてみれば、江戸時代に描かれたとほぼ同じ景観が遺っていて、ちょっと感動したんです。若い時分に目黒「大鳥神社」隣の某財団(ポプコンや世界歌謡祭からデビューの方々)の仕事をしていた頃に日々通っていたも、迂闊にもその近くに「目黒不動尊」があるのに気付かず。

myouhoujisanmon_1.jpg かくして、内藤新宿から青梅街道を西に走って「堀之内」を訪ねた。広重『絵本江戸土産』第三篇に描かれた絵、同じく広重『江戸名勝図会』の「堀之内妙法寺」(祖師堂から仁王門を望む絵)、長谷川月岑の『江戸名所図会』四巻の絵、また粗忽者が御祖師様へお詣りに行く志ん朝落語『堀之内』などを頭に浮かべながらのペダルのこぎこぎ。

 昔は新宿・十二荘も行楽(歓楽)地だったはずで、そこを右に見て進む。やがて鍋屋横丁。落語では、ここまでくれば太鼓をドンブク叩きつつお題目を唱える堀之内へ行く集団に出逢えることになっているが、今はそんなこたぁ~ない。山手通りを越えて東高円寺、蚕糸の森公園へ。ここに「青梅街道」の説明看板あり。その概要は~

 慶長十年に江戸城修築の城壁用に現・青梅市産出の石灰を運ぶ道として開かれた。江戸中期以降は江戸の発展に伴って物流、秩父巡礼、甲州への脇往還(裏街道)として発達。明治に入って乗合馬車、大正十年に淀橋~荻窪間に西武鉄道が開通。

horinouti_1.jpg そして環七を超えると、やっと堀之内だった。内藤新宿から5.5㎞。ここも「目黒不動尊」と同じく「絵本江戸土産」(左)に描かれた景観がほぼそのまま遺された貴重かつ有難いお寺でした。山門を入ると鐘楼、大きな祖師堂から本堂、日朝堂。江戸時代後半の十月・御会式には、善男善女や文人墨客で境内は足の踏み場もないほどの賑わいで、浅草観音と並び称されたとか。

 江戸下町から歩いて堀之内へ。厄払いして再び江戸の入口・内藤新宿に戻ってくれば、もう足はクタクタ。「ハっつあん、どこぞの旅籠屋でちょっと休んで行こうよ」なるセリフが自然に出る、そんな距離でした。


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