旅籠屋(妓楼)で〝見立て〟(12) [甲駅新話]
<後>まいるハ、わたくしがまい(参)ります ~<谷・金>二人とも帯を〆直しなどして身こしらへする内に<後>もゆかたを出してきがへ、こしの物(脇差)、すげ笠も戸たなへ仕廻(しまい)、錠をぴんとおろして(これらは茶屋で預かる事になっているのだろう)~
<後>五郎どん、たのむよ。馬幸さんがござつたら待せもふしておかつせへ。直に帰るから
<五郎>亀本への返事を一寸(「かゝ」の字が欠けているらしい)さん出しておくんなんしな ~と出してわたす。<谷・金>たがゐに何か耳そうだんして<金>ふところより弐分(一両の半分)出してわたす~
<谷>~取て紙にのせ~ かゝさん、サァ
<後>はい。~といたゞき紙にひねり~ お預り申ます ~前きんちやくへ入て、帯にはさむ~
<金>サア、めへりやせう ~<五郎>庭(土間)へおり、はき物直す <後>同じくおりて、てうちん(提灯)さげ~ さあ、お出なさりまし
<五郎>左様なら、御きげんよふ
<後>五郎どん、門の明りがまだつかねへによ
<金>とんだくらい晩だね
<谷>その筈さ、コウト、四ツ八分(校注に博打用語でお先真っ暗の意とあり)の月だもの
<後>モシ、いよいよ紀の国かね
<谷>しれし・しれし
<後>お見立なさりますかへ
<谷>金公どふ志ようの
<金>どふでもよふごぜんす。かゝさんどふするがよかろう
<後>ナンナラ、ゑへ女郎衆を出し申ませふか。 夫(それ)ともお見立なさらバお見立なさりまし
<谷>ソノゑへといふのハ、としまか新ぞうか
<後>二人とも中としま(22、23歳)衆で、とんだ気どりのゑへ女郎衆でごぜんす
<金>そんなら、夫(それ)に志よふかの
<谷>志かし、呼出し遊びハするなと指南集にもあるぜへ。ソシテ手には(てにをは=つじづま)の悪い物だよ
<後>そんならお見立になさりまし
<谷>~いきな声して~ 見立られたが嬉しさに ~紀の国屋にいたる~
<若イもの半兵へ> お出なさりまし
<後>半兵へどん、お見立てだよ
<半兵へ>あい ~と、かげみせの方へ行て~ お見立がごぜんすよ
~<谷・金>二人ハ張ミせに居る女郎をしり目に見ながら上ル<後>も、はき物とつてあがる~
<谷>~声をひそめ~ どふだ金公、見たか
<金>耳を出しな
<谷>ウウ・ウウ
内藤新宿の女郎と遊ぶシステムが詳しく記されている。その意では同書も『指南書・案内書』のひとつと言えなくもない。あたしは内藤新宿の洒落本類は、内藤新宿再開時に町の上納方を仰せつかった平秩東作(狂歌名。馬宿・煙草屋の通称・稲毛屋金右衛門。本名立松懐之)の企てだったように思えてならない。
平秩東作は、平賀源内と友人で、この時代の狂歌・戯作界の長老的存在。彼が企てた「内藤新宿プロモーション」に、弟分らが加担したのではなかろうか。靖国通りは成女学園隣の「善慶寺」に眠っている平秩東作のお墓に、この辺の事情をぜひ訊いてみたい。
模写した絵は、朱楽管江(あけらかんこう)による『売花新驛』の桃江画より。朱楽管江も平秩東作の弟分(大田南畝、唐衣橘洲と共に狂歌三大家のひとり)で、牛込二十騎町に住む御先手組与力。ちなみに妻は狂歌名「節松嫁々(ふしまつのかゝ)」。先手組与力とは言え、狂歌や戯作に入れあげていたのだから、大した仕事はしていなかったのかも。『売花新驛』は『甲驛新話』より二年後の安永六年(1777)刊で、同書巻末に『甲驛新話』の広告あり。
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