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メモ「廃駅は大八の喧嘩両成敗」(14) [甲駅新話]

zukaisinjyuku_1.jpg 『江戸名所図会』の「四谷 内藤新宿」(絵・長谷川雪旦/文・斉藤月岑)にこう記されている。~元禄の頃、此地の土人、官府に訴へて新たに駅舎を取立る。故に新宿の名有り。然りといへ共、故有りて享保の始、廃亡せしが、又明和九年壬辰再ひ公許を得て駅舎を再興し、今また繁昌の地となれり。

 野村敏雄著『新宿っ子夜話』に、内藤新宿が廃駅となった原因の一つとされる旗本子弟・内藤大八の事件が『鯨の大八』題名で記されていた。著者も参考にした岡本綺堂・戯曲『新宿夜話』は著作権切れでデータ公開されてい、これも拝読したが、芝居効果的省略が多く、ここは野村著の概要を記しておく。『甲駅新話』登場の旅籠屋名も登場で興味深い。

 四谷大番町の旗本四百石・内藤新五左衛門の弟・大八は、部屋住みの二十代で夜ごと内藤新宿で喧嘩を売ったりの厄介者。時は内藤新宿の開設二十年後の享保三年(1718)。まず大八事件の前に、「上総屋」で遊女と客が心中し、厳しい吟味があるも、遊女が正規の食売女二名外の女だったことが見過ごされた。

 大八がここにつけ込んで「上総屋」をゆすり、金をせしめた。「上総屋」は三田村鳶魚編『未刊随筆百話』に、三光院稲荷(現・花園神社)の祭りで、甲州街道を跨いだ向かいの「橋本屋」まで橋燈籠を掛け渡すなどした大見世と記されている。また同著には『江戸名所図会』に描かれた絵に「和国屋」名あり。あの格子が遊女見立ての張見世(絵は営業を終えた年末で開け放立てれいる)だとわかる。

 話を戻す。大八は「上総屋」でせしめた金を懐に、馴染遊女・千鳥のいる「「信濃屋」へ行った。大八は千鳥が他の座敷に出ているのが気に入らず怒鳴り出した。日頃の彼の狼藉に我慢の「信濃屋」奉公人らの堪忍袋の緒が切れた。幸い、腰の物(刀)も預けられている。彼らに袋叩きにされて素っ裸で屋敷に戻った大八に、兄の怒りが爆発した。「武士が町方に打擲(ちょうちゃく)され、丸腰で帰って来るとは旗本の恥、内藤家の恥。腹を切れ」。

 兄は弟・大八の首を大目付に差し出し「それがしの知行を召上げ、内藤新宿も潰し下され」と喧嘩両成敗を訴えた。同年十月に廃駅決定。内藤新五左衛門の家も潰され、旅籠屋は二階座敷の取り壊しと転業を強いられた。内藤新宿の復活は、実に五十年後だった。

 岡本綺堂『新宿夜話』では、大八の馴染は「信濃屋のお蝶」。大八が袋叩きされて倒れていたのは旅籠前で、そこに兄が通りかかった。大八は兄に助けを求めるも、中間が抱えても立てず。兄がキレて、屋敷に戻れぬなら、ここで腹を切れ、兄が介錯してやる ~となっている。また同舞台一幕は、それからン十年後。老僧になった新五左衛門が内藤新宿に戻ってきて、安旅籠の床几に腰を下ろす場から始まっている。老僧が亭主に潰された内藤家のその後を問えば「お武家の屋敷に草は生えても、色町に草は生えません。今はこの賑わいです」。

 老僧はこの安旅籠に泊まろうとしたが、夜になると各旅籠屋二階がドンチャン騒ぎの大賑わいで「これでは眠れん」と宿を出て夜道を歩き出すシーンで幕になっている。同芝居は明治二年初演で、各小屋で上演されている。なお『鯨の大八』最後は、「上総屋」は幕末に品川宿に移転し、「信濃屋」は屋号を変えて明治まで繁盛した、で結ばれていた。どこまでが事実で、どこからフィクションかは定かではない。『未刊随筆百話』も読んだので後述する。


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