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床入りの部屋へ(19) [甲駅新話]

koeki16_1.jpg<後>イイエサ、まだお約束のお客が有(ある)はづで御座ります。そしてまだ、亀本へもよります。あすの朝ハ何時(なんどき)へ(茶屋が旅籠屋・妓楼へ迎えに行くのだろう)

<谷>おらアいつでもゑへ。金洲、何時

<金>七ツ半(五時頃)さ

<後>ハイ、さよいふなら、御きげんよふ

<二人>おさらハ・おさらハ

<金>アニ、かゝあもよく呑やすね

<谷>ウゝ、ぜんてへ(全体:名詞=すべての部分。副詞:もともと、もとより。江戸弁で大工=でえく。「た」を「て」変化が多い)勤(女郎勤め)をした女だ。どうだ、気があるか

<金>どふも色が黒いね

<谷>大木戸のわら屋(同じく茶屋だろうか)のかゝあハ見なすつたか

<金>いゝへ

<谷>今度見なせへ。とんだうつくしいよ

<金>今度のとハ(見立てた女とは)、どふだね

<谷>ホンニ、おれがやつも、うつくしさあ美しいが、ちつとけんてへ(倦怠=けんてへ?校注では傲慢なこと)ぶるよふだの。ぬしのハおとなしそうだ 

<金>成るほど、綱木とやらハわつち共が歯には合やせん

<谷>あゝゆふやつを買こなすと、おもしれへもんだよ

<半兵へ>チトあちらへお出なさりまし

<谷>床といふ所か。サア、何所だ何所だ

<半>廊下ざしき(廊下に面した座敷?)で御座ります

<金>一所(ひとところ)か

<半>イイエ、おまへハ下で御座ります

<金>それハわるいの

<半>イエ、その代り涼しいよい所で御座ります。先是(まずこれ)にお出なさりまし ~すずりぶた、てうし(銚子)、たばこぼんなどはこぶ~

<はるの>~ゆかた持来り~ お召なんし

<谷>そけへおきや。コレ、よく水を呉ねへの

<はる>今にあげいすよ。コウ、半兵へどん、下でよばつしやるよ

<半>それでは、からだは二ツハねへものヲ ~といゝな下へ<はる>もつゞいて行~

<谷>サア、着けへよふ。しわになつちやアいてへ

<金>どれがそだね

<谷>どれでもゑへハナ。むきミしぼり(むき身絞り=貝のむき身のような模様の絞り染)にしや。おれが仲蔵嶋(なかざうじま=歌舞伎の中村仲蔵が好んだ縞模様)にしよふ。コレ、見や、此袖のちいさサ。そしてでへぶ(大分)汗くせへ ~ふたりともゆかたに着かへる~

<金>ドレ、おめへのきせるをお見せなんし。ゑへなり(容子)だね

<谷>ナント、よかろう。そしてとんだ目(目方の目=重い)があるよ。さくら張(真鍮製)をニ本一所にした上に、角蔦(吉原の妓楼)の女郎にかんざしを貰て足たものヲ

<金>ホンニ、よつぽどごぜんせう

<谷>いつでも二ぶづつの(二分金相当づつ)の早玉(?)さ

<三>~廊下にて~ 綱木さん・綱木さん

<綱>~奥ざしきの方にて~ アイ今いきいすよ

<三>オヤ、ぬしたちやア、いつも間に爰へ来なんした

<谷>先おとてへから来ておりやす

 

 吉原、遊郭関係書は幾冊もあろうが、読む気の湧かぬままで、廓遊びの洒落本理解にままならぬところがあり。物語はいよいよ床入りで、男は浴衣、女郎は長襦袢に着替えます。

若い時分に、縁あって二つの着付け教室(学園)の教科書(各四冊)を作ったことがあるが、着付けの解説が主で、長襦袢の歴史には触れなかったのだろう。このたび「長襦袢」調べをすれば、アラビア語「ジュッパ」がポルトガル語化して「ジバゥン」。これを当て字で「襦袢」になったとか。ウヘッと驚いた。

「ジバゥン」なる言葉がいかなる経緯で日本に入り、それが当て字「襦袢」になった経緯も面白そう。それはさておき、江戸前期までは半襦袢で、後期あたりから遊女らが部屋着として用いたのが長襦袢。それが今の長襦袢になったらしい。遊女らが着物文化を育んだとも言えそうです。

母が茶道、華道のおっしょさんで、子供時分から着物には馴染んで来た。だが、よく言われる「袖口、裾から覗く襦袢の色気」なる意識は皆無。子供だったせいか。二十代後半に着付け教科書を作り、中年になって演歌歌手の密着仕事などもしたが、それら時期にも「長襦袢の色気」には無縁。そして今、隠居になって改めて浮世絵を見るってぇと、華やかな長襦袢のさまざまが鑑賞できて、改めて「いいなぁ」と思う次第です。老いぼれてからでは「後のまつり」でございます。

模写絵は、二階の床の様子でも盗み聞きしたのか、女が「オホホッ」と忍び笑いする姿を描いた芝全交・作、北尾重政・絵『遊技寔卵角文字』より。


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