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メモ:豊倉屋お倉、明治を操る(27) [甲駅新話]

okura_1.jpg 内藤新宿で代々旅籠屋(妓楼)総代を務める大見世が豊倉屋。太宗寺の斜め向かい。ここに安政三年(1856)、谷中生まれの伝法でちょいといい女(19歳)が身を売った(遊女)。彼女の活躍逸話の数々は横浜に移ってからだが、それまでの人生も面白いので、ここに記す。

 父は丑五郎、祖父は川村屋徳次郎。一家は浅草堂前の私娼窟の店頭(たながしら)で、かつ十手持ち。「天保の改革」で岡場所取り壊し。一家は裏営業をつづけて摘発された。父は三宅島へ、祖父は流刑地の大島で亡くなった。(大島の流人墓地を探ってみましょうか)

 かくして一家離散。六歳のお倉は浅草・馬道の夫婦に育てられた。娘になると水茶屋に立ち、一枚絵に描かれるほどの評判美人になった。鉄砲鍛冶の鉄六と恋仲に。所帯を持つが、安政大地震で鉄六は大怪我。まとまった金を得るために内藤新宿の旅籠屋に身を売った。金を鉄六に渡して「ちょっと風呂に行って来る」と家を出たまま姿を消した。行く先は豊倉屋。たちまち人気を得て、座敷持ちの女郎になる。今度は遊び人・亀次郎に惚れて、山谷堀の芸者・小万と競い合った。

 大田南畝が「詩は詩仙、書は米庵、狂歌はおれ、芸者は小万に、料理八百善」と詠った小万だが、お倉に会って身を引いた。しかし亀次郎の遊びの尻拭いはきりがない。同じ内藤新宿「菊池屋」に移り、ここで八丁堀の与力・高橋藤七郎に身請けされて妾宅へ。亀次郎と切れずが発覚して放逐される。今度は品川「湊屋」へ。身代金の百五十両はむろん亀次郎の懐へ。ここでは金座の役人・誉田に二百両で落籍されて妾宅へ。またも亀次郎と脱走して、今度は吉原の引手茶屋「新尾張屋」の芸者に。吉原を逃げ、大阪を逃げ(大阪では芸者ではなく芸子)、さらに蒸気船に乗って横浜へ逃げた。

 そこまでくっつき通した遊び人・亀次郎の祖父、父は植木屋。祖父の代に青花の石斛(せっこく、ラン科)を持っていたことで吹上奉行の目に止り、吹上御所の庭仕事を請け負う。十一代将軍は風蘭(ふうらん、ラン科)も好きで、風蘭の中でも特に素晴らしいのが「富貴蘭」。これを献上した褒美に、将軍から「富貴」なる書をいただく。これが後の横浜「富貴楼」命名へ。さらに加える。父の代になって飯田町から高田馬場は穴八幡辺りへ移転。広大な植木畑に職人と小作人合わせて百人。「穴八幡周辺に植木屋多い」の記述をどこかで読んだことがあるが、その植木屋の一人が亀次郎の父らしい。

 横浜芸者時代に、井上馨と両替屋・糸屋平八の密会場所として小料理屋を持たされ、それが「富貴楼」の最初。店は次第に大きくなり、併せてお倉は明治の政治家、財界人を自在に手玉にとる大女傑になって行く。富貴楼・お倉を贔屓の政治家は伊藤博文、後藤象二郎、大熊重信、陸奥宗光、松方正義、西郷従道など。大臣参議も富貴楼で行われ「お茶屋の内閣」と言われたそうな。

 お倉の本名は「渡井たけ」だが、彼女は内藤新宿「豊倉屋」での遊女名・お倉で生涯を貫いたそうな。この文は鳥居民著『横浜富貴楼お倉』と野村敏雄『新宿っ子夜話』よりまとめたもの。より詳しくお倉を知りたければ、鳥居著巻末に「参考・引用文献一覧」が載っている。内藤新宿の旅籠屋には、こんな遊女もいたというお話でした。


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