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鶉衣3:宗春に仕えた苦労 [鶉衣・方丈記他]

kanseinokaikaku2_1.jpg 横井也有と尾張藩の事情をもう少し知りたい。也有が尾張藩の御用人を務めた父・時衡の家督を継いだのは享保十二年(1728)、二六歳の時だった。その二年後に宗春が尾張藩主になった。宗春の兄・継友が八代将軍継承の闘いに破れたゆえ、宗春と吉宗は因縁の間柄。

 吉宗の倹約施策「享保の改革」に比し、宗春は「温知政要」をもって藩政にあたった。藩主になった翌年。沿道の人々が腰を抜かさんばかりの派手な衣装・行列で名古屋入り。歌舞伎座を京都、江戸、大坂に次いで名古屋にも設け、遊郭もつくった。尾張に商店も人も増えて大繁盛。“尾張芸どころ”の礎となった。

 しかし藩には吉宗(公方)派の附家老がいて、伝統の勤皇系もいる。用人らは右往左往、ハラハラドキドキ。横井也有もキリキリ舞いだったろう。やがて吉宗の怒りが爆発。宗春は火事焼失の江戸上屋敷(市ヶ谷、現防衛省)を新築するも、中屋敷(麹町、現上智大)に隠居謹慎。吉宗没後に宗春は隠居謹慎のまま名古屋・下屋敷へ。この時、宝暦四年(1754)。也有が五三歳で隠居した年になる。

 海音寺潮五郎『吉宗と宗春』(昭和14年刊)は小説ゆえ二人の確執、闘いが吉宗創設の御庭番の暗躍も交えて面白く書かれている。也有は『鶉衣』にこう書いている。~官路の険難をしのぎ尽し、功こそならぬ、名こそとげね、ほまれのなきは恥なきにかへて、今此の老の身しりぞき、浮世の塵を剃りすつべきは、いかでうれしとおぼさざるや。

 『鶉衣』は大田南畝がこれは面白いと蔦重の手を煩わせて刊行させたが、この時の大田南畝の事情にも注目したい。『鶉衣』前編刊の前年、天明六年は徳川家治没で田沼意次が老中を解任。天明七年に吉宗の孫・定信が老中就任。定信は吉宗と同じく厳しい倹約令「寛政の改革」で世を締め付けた。狂歌・戯作者らのパトロンだった勘定組頭・土方宗次郎は死罪。恋川春町を死に追いやり、宿屋飯盛は江戸払い。山東京伝は手鎖五十日の刑で、蔦重は財産半分没収。大田南畝は土方の援助もあったか吉原・遊女を身請けしてい、首がヒヤリとしたに違いない。彼は狂歌、戯作者との交流を絶って学問吟味に挑戦した。

 南畝は下級武士(徒歩組)。横井也有のようは上級武士ではなかったが封建下の宮仕いの悲哀に共感するところ大だったのではないか。大田南畝による也有『鶉衣』出版にはそんな思いも秘められていたと推測するがいかがだろうか。前段はここまで。次は『鶉衣』の四方山人(大田南畝)の序へ。


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