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義松はなぜ忘れ去られたか? [スケッチ・美術系]

yosimatu7_1.jpg 五姓田義松はワーグマンに6年間師事し、明治4年・16歳で独立。当時の油彩材は高価で、主に鉛筆と水彩で洋画を習得。だがそれらとて輸入品。前回と同じく図録解説に私見を挟めば「日本初の鉛筆工場」が新宿御苑脇にあったことも付け加えたい。

 信州高遠藩主・内藤家屋敷(新宿御苑)の玉藻池と現・内藤町の間に水が流れていた。江戸市中通水に余った玉川上水を流す渋谷川。そこに米搗き水車が四つ。明治20年に「眞崎仁六」が水車一つを借りて日本初の鉛筆工場を作った。大正5年に彼は三菱鉛筆に迎えられ、そこが同社創業の地。そう記された絵入り「鉛筆の碑」が内藤神社脇に人知れず建っている。(下のカット絵参照)

 話を戻す。図録解説には水彩絵具を自作したとある。その詳細も気になるが、義松が洋画習得に心血を注いだ「鉛筆画・水彩画」は他洋画家より優れ、かつ風景画には印象派を知るよしもないが水面の光の揺らぎまで描かれていると説明されている。

 明治10年(22歳)、第1回内国勧業博覧会で洋画家の最高位受賞。翌年に明治天皇の北陸・東海道御巡幸に供奉。23歳で宮内省より依頼の孝明天皇(12年前に崩御)の肖像画を完成(京都に遺された肖像画を参考に、洋紙で裏打ちされた和紙に水彩画)。昭憲皇后肖像画(油彩)も完成。その2年後に高橋由一が例の〝ミカドの肖像=明治天皇〟を描く。

 義松の渡仏は明治13年(1880)25歳。翌年にサロン入選。後に日本洋画界を政治的にもリードする黒田清輝の渡仏はその4年後。彼の「読書」がパリのサロンに入選は、義松入選から10年も後のこと。

enpitukojyo1_1.jpg 義松の渡仏、サロン入選がいかに早かったか。だが西洋絵画の革新はもっと早かった。義松渡仏時に、ドガはもう〝踊り子〟を描いていて、6年前の1874年に印象派第1回展。黒田清輝が帰国して東京美術学校・西洋画科教授になった頃には、モネは早や晩年だった。

 義松は日本で身に付けた洋画をもって本場に挑戦した。その結果、印象派の流れに乗れなかったことで、帰国後は次第に忘れ去られたらしい。では黒田清輝が新しい絵画を学んで帰国したかと言えばそうでもない。彼が師事したコラン先生も伝統的アカデミズムの画家。黒田の代表作「湖畔」はアカデミズムに印象派要素少々の感。

 明治画壇をリードするには、黒田清輝が有していた〝柔軟さ〟と〝政治的気質〟が必要だったような気がしないでもない。似顔絵カットはチラシや図録に掲載「五姓田義松の白黒写真」(帰国後)から勝手着色。ニ枚目に描き過ぎて微妙に似ていないが、どこか頑な感じは出せたか。(続く)


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