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輪になって裸体踊れと軽さ増し [スケッチ・美術系]

dance1_1.jpg <マティス・メモ9> 飽きてきた(マティスも好きじゃなくなってきた)ので端折る。●1909年、パリ郊外イシーに移転。翌年「ジャズ」「音楽」出品。巨大キャンバスに「ダンス」●1911年「茄子のある室内」。後にモダニズム第一歩と言われる。●1912年、夫婦でモロッコへ。

●1913年、米国3大都市で個展。パリで不人気も米国では絶賛。(同年は大正2年、藤田嗣治渡仏)。●パリのアトリエに版画のプレス機導入。●ドイツがフランスに戦線布告。パリから外国人が消えた。イギリスも参戦。イシーのマティス家は陸軍本部として接収され、南仏コリウールへ。

●1915年、戦争画家として前線へ(どんな絵を描いたのだろうか。藤田嗣治はロンドンに避難)。●1916年末に休戦。●1918年「マティスとピカソ二人展」。●1919年、ニースへ。70代後半のルノアールを訪問。ルノアールは最後の力で「浴女たち」完成。マティスはロシアバレエ団の舞台・衣裳を担当。

●1920年、故郷の母死去。(●1922年、藤田嗣治「寝室の裸婦キキ」で一躍人気画家へ)●1923年、娘が結婚。次男はコルシカ島の娘と結婚するも2ヶ月で離婚。先方の父が銃を持ち、次男をNYに逃がす(後にNYの画商として成功)。●1925年(55歳)ドヌール勲章。●1927年、カーネギー国際展でグランプリ。

●1930年、タヒチへ。同年再びカーネギー賞審査のため渡米。ピカソを選出する。●1935年、65歳。24歳リディアをモデル・秘書として雇う。●1936年、パリで10年振り個展をするも〝ピカソの時代〟。「マティスは軽い、軽薄、退廃芸術の典型」などのレッテル。ドイツでもマティス作は退廃にて全美術館から追放。

●1938年、ニースに2部屋購入。ドイツはオーストリア併合しチェコを狙い出す。●妻の主張でリディアを解雇。リディア自殺未遂。●1939年。妻が別居契約書と所持品二等分手続き。 戦争あり、栄誉と不人気の上下動、子らの満足できぬ結婚、リディア解雇と妻の別居。まぁ波乱の30年で、心乱れ乱れたろうに裸婦を描き続けた。


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