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蒲原「巡礼の娘と思ひ忍びしは~」 [狂歌入東海道]

16kanbarae2_1.jpg 第十六作目は「蒲原」で狂歌なし。この地を詠った狂歌がなかったか、見つけられなかったと推測する。表題の上の句は、後述する弥次喜多が詠った狂歌。

 絵は富士山を背に坂下から山道に上り出た旅人らが描かれている。蒲原宿は概ね海沿いゆえに、宿の手前の風景だろう。保永堂版「蒲原」も山奥の雪景色で「蒲原にこんな地形はないし、雪も降らない」と揶揄されてい、描かれた地の特定は難しい。

 弥次喜多らが蒲原宿に入ると、本陣に大名行列一行が泊っていて、時は配膳の真っ最中。喜多さん、どさくさに紛れ込んで女に「ここにも一膳」で、サッと膳を平らげた後、もうひとつの膳の物を手拭を収めて弥次さん用に調達。「うめぇ、うめぇ」と喰った弥次さんだったが「こりゃ、てめえが金玉やなにかを洗った手拭じゃねぇか」。

 結局彼らは宿場外れの、七十近い老夫妻が営む四、五畳ほどの木賃宿へ。客は六部(銭を乞いながら諸国の神仏を巡拝する者)が一人、六十余の親爺と十代の娘の巡礼二人組。彼らは物乞い(喜捨・布施)で得た米を出し合って炊いているが、弥次喜多のふたりに米はなし。

16kanbarabun1_1.jpg16kannbarauta5_1.jpg 六部、巡礼に至った人生遍歴などを聞いて、やがて寝る時間に。宿の婆さんは巡礼の娘と天井で眠り、男らは囲炉裏のまわりでごろ寝。喜多さんが娘に仕掛けぬわけがない。深夜に梯子を伝って天井へ。間違えて婆ぁの蒲団にもぐり込んで大騒ぎ。怒鳴られた彼は天井の簾子を踏み外して下の仏壇の中へ落下。この失態と修理費一部に浴衣を渡して平謝り。

 ここで表題狂歌「巡礼の娘と思ひ忍びしはさてこそ高野六十の婆々」。これは諺「高野六十那智八十」からとか。校注に諺由来の諸説が紹介されていたが、下世話な作者、男色関係にあった弥次喜多から「高野山、那智山の僧は男色が盛んで六十、八十になっても」の説が順当だろう。下世話ついでに「蒲原名物」は〝ひごずいき〟で女悦の具とか。弥次喜多らはバカ話をしているうちに由井の宿へ到着する。

 ※Yasuoka様、ご指摘ありがとうございます。小生所有の「蒲原」に狂歌が抜け落ちていた。そんなことがあるのですね。ボストン美術館は「春風に向て田村をすぎ行けば真袖に匂ふ梅にかん原」ですが、結句「梅〝に〟かん原」で良いのでしょうか。「梅〝か(が)〟かん原」とも読めます。古今和歌集に「梅が香を袖にうつしてとどめてば春は過ぐとも形見ならまし」があります。また「梅が香」は短歌・俳句の季語で多くの歌人、俳人が詠っています。加えて作者は〝梅香居〟です。従って「梅がかん原」は狂歌ならではの地口洒落ではなかろうかと思われます。いかがでしょうか。「真袖=まそで=両袖」。後日改めて「くずし字筆写」をしてみたく存じます。 


コメント(2) 

コメント 2

Yasuoka

五十三次完走おめでとうございます。私は美術館に行って眺めるだけなので揃物一式をすべてお持ちとは誠に羨ましい限りです。江戸期のくずし字は私も含めた凡人には縁遠くご教授賜れば幸いです。
by Yasuoka (2016-11-08 22:15) 

松尾 守也

yasuoka様のご指摘以外に、イギリスの美術館(Victoria Albertではないかと推測)がhttp://www.hiroshige.org.uk/hiroshige/tokaido_kyoka/tokaido_kyoka.htm
公開しています。これによりますと、
(原文) : 春風に 向て田村を すき行けハ 真袖に匂ふ 梅かかん原  梅香居
(読み) : 春風に 向いて田村を 過ぎ行けば 真袖に匂う 梅が蒲原  梅香居
なお、原文「梅か蒲原」を「梅が蒲原」と読んでいますが、「梅香蒲原」かもしれません。
by 松尾 守也 (2017-02-02 11:00) 

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