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十返舎一九とは(2) [狂歌入東海道]

19e4_1.jpg (1)の続き。一九は大阪で小田切土佐守に仕えた後に浪人。25歳の時に材木商某の入婿になった。娘の父親や手代らが仕事を仕切るゆえ、一九は香道、料理、浄瑠璃の世界に足を踏み込んだ。松井今朝子『そろそろ旅に』では、入婿先の女が実にいい女に描かれて、離縁に至る経緯に小説の真骨頂発揮。だがそれはフィクションで、実際はかなりの年増女だったかも知れない。

 この時期に、浄瑠璃「木下陰狭間合戦」他に〝近松余七〟の名で連作合作。その後に離婚した。寛永五・六年頃に江戸へ。蔦屋重三郎の食客になり、山東京伝の滑稽本『初役金鳫帽子魚』に「一九画」の挿絵。唐来三和などに勧められて黄表紙作家へ。

 寛永七年、31歳。京伝のヒット作『心学早染草』(例の善玉・悪玉の物語)にあやかった『心学時計草』など3作を自画で刊。号は「十編舎一九」。この3冊が好評で蔦屋他の諸版元から一気に20作ほどを刊。号も「十返舎一九」に定まった。

 翌年、蔦屋を出て長谷川町へ。同時期に再び町人某に入婿。一九はモテたから入婿需要多し。寛永九年の著書に「はせ川てふ(町)の一九」と記されているとか。寛永九年、蔦重が48歳で病没。この時、一九は34歳。この頃に「不埒の血」も騒いで、吉原通いが盛んだったらしい。

 中村幸彦解説には、同時期に江戸の友人も増えて「千穐庵三陀羅法師」主宰の「神田側」なる狂歌連に属し、かなり狂歌に熱中したと記されていた。そこで「千穐庵」を調べてみた。

 「千穐庵三陀羅法師」の本名は赤松、後に清野。唐衣橘州の門下(狂歌の本格系)で一派を率いた狂歌師。彼の編による寛政11年刊『狂歌東西集』の「江戸狂歌・五巻」には一九の狂歌が十数首も掲載されていた。また千穐庵撰『江戸狂歌本選集』には葛飾辰政(北斎)画で一九像も描かれ、その画に「はつかしや君にふらるゝ錫杖のかたちよりして生れたる身は」の狂歌が挿入。また一九自ら狂歌絵本『十廻松』(自画・編)も刊。

 松井今朝子の小説では、長谷川町の入婿先は山東京伝の死んだ妹(狂歌名・黒鳶式部)の友達で、質屋の娘・八重さん。彼女は一九の妻になっても京伝ファンで、それが原因で次第に夫婦の仲が冷え込んで行く。吉原通いも盛んになる~という小説的アイデアが面白い。

 二度目の入婿離縁は、寛政13年で一九が37歳の頃らしい。婿先から飛び出せば、再び奮起して自分の力で食って行くより他にない。時あたかも洒落本の取締りが厳しくなっていて、新たなジャンルを開拓しなければならない。一九は南総、箱根入湯へ旅立って滑稽旅行記を手掛け出す。

 長くなったので、今回はここまで。絵は前回の模写に淡彩。旅を始めた一九は肌黒くなっていたかもしれない。(その3へ続く)


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