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永井荷風の狂歌論 [狂歌入東海道]

kafu1_1_1.jpg 荷風全集・第十四巻に『狂歌を論ず』(大正6年、三十七歳)あり。以下、その概要をまとめる。まず冒頭で浮世絵好きになって「狂歌」に興味を覚えたと記す。浮世絵に狂歌挿入例が多かったからだろう。

 狂歌は俳諧、小唄、後の川柳、都都逸を一括して江戸庶民の間で発達した近世俗語体の短詩である。俳諧と狂歌の本質は〝滑稽諧謔〟なり。これは南北朝以来の戦乱による諸行無常、厭世思想と修養を経て洒脱となって滑稽諧謔に至った。これが徳川三百年を経て江戸都人の精神になった。

 さらに続く。「明暦の大火、安政の大地震~。江戸の都人は惨憺たる天変地妖に対しても亦滑稽諧謔の辞を弄せずんば己(や)む能はざりしなり」。滑稽諧謔で乗り切る他になかった。よって和歌の貴族的なるを砕いて平民的に自由ならしめたる他ない。

 俳諧は也有(横井)も「富貴誠に浮雲、滑稽初めて正風」と指摘する通りだが、俗悪野卑に走りがけるも「芭蕉の正風」によって清新幽雅の調を出さんと欲する刷新で世の迎ふるところなりしが~。

 狂歌は白河楽翁公(松平定信)の幕政改革までの約二十年間、天明寛政の頃に最も輝いた。この時期に浮世絵と狂歌は密接な関係を有した。だが寛政の改革で、戯作者らへの賞罰などあり。

 その後も広く世人に喜び迎えられたが、其の調は其の普及と共に卑俗となり、天保以降に及んでは全く軽口地口の類と擇(えら)ぶ所なきに至れり。そして「維新の後世態人情一変して江戸の旧文化随時衰退するや狂歌も亦その例に洩れざりき」。

 ここから荷風も好きでよく作った俳句に言及。「俳句は狂歌と同じく天保以後甚だ俗悪となりしが、明治に及び日清戦争前後に至りて角田竹冷正岡子規の二家各自同好の士を集めて大に俳諧を論ぜしより遽(にはか)に勃興の新機運に迎えへり」。

 俳諧狂歌は仏教的哀愁と都人特有の機智諧謔によっているが、西洋諸國近世の新文化及び哲学の普及・侵入によって軽躁、驕倣、無頼になってしまった。『伊そしてこう結んでいた。『伊勢物語』は国文中の真髄。芭蕉、蜀山人に江戸文学の精粋なりと、その含蓄を味わうことが真の文明となすべきなり。

 ※前回「永井荷風の狂歌」にスマホの「メモ・手描き機能」で描いた荷風の若き外遊時の似顔絵をアップしたので、今回も同様手法で晩年の荷風も描いた。スマホで絵が描けるとは思わなかった。


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