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岡倉天心と九鬼周造 [永井荷風関連]

tensin2_1.jpg 九鬼周造『「いき」の構造』は、化政期に成熟した〝生き方〟の概念・分析と言えようか。夏目漱石の小説は、友人の妻への横恋慕に悩む〝野暮の骨頂〟。一方の荷風さんは江戸の「意気」「諦め」「渋さ」が残る花柳界や花街での遊び。

 その辺を哲学した九鬼周造も、それなりの〝遍歴〟ありやと邪推し、そこを探れば下世話過ぎる。そこで彼に影響大だったかの父・九鬼隆一を調べてみた。すると、なんと彼の妻・波津(はつ、初子、波津子)と岡倉天心が、とんでもなく深間で、かつ隆一と天心の両人は、明治の日本美術界のボス的存在だったと知った。

 まず九鬼隆一の横顔から。丹波綾部藩の主席家老・九鬼家の養子。18歳で同藩家老の娘・農(たみ)を娶る。子が産まれた翌年の明治3年(1870)に福沢諭吉の慶応義塾へ。明治5年に文部省へ。配属先が南校(後の東大)。教頭がフルベッキさん(青山・外人墓地で取り上げた)だった。

 明治6年、欧米留学生らの膨大費用の実態調査で欧米視察へ。休暇帰国のフルベッキさんが同行した。結果は「現状を鑑みると学費一斉打ち切りが妥当」。以後の留学生選考が厳しくなった。隆一は高級官僚になり、養父が亡くなった頃から遊びが激しくなった。京都祇園通いで、半玉(15歳)〝波津〟を落籍して二番目の妻にした(松本清張:波津は14,5歳で九鬼家に上がった小間使いだった)。翌年、駐米特命全権大使を拝命。波津を伴って渡米。彼女は「ワシントンの美しい大使夫人」として米紙を飾ったりした。

 明治18年(1885)、波津は公使館で次男・三郎を産み、産後の体調芳しくなく帰国を望んだ。明治20年、公使館に欧米美術視察中の岡倉天心、フェノロサが立ち寄った。隆一は彼らの帰国に波津を同行させた。ワシントンから大陸横断して太平洋の船旅。波津は早くも次の子を懐妊中(周造)も、この長旅で天心とどっぷり深間になった。(松本清張は二人の深間関係を、天心が清国旅行から帰国した明治23年から明治30年としている)。

 フェノロサの日本美術礼賛に賛同して動いていた隆一と天心(天心は東大生の時にフェノロサの通訳で美術品蒐集を手伝った。東大卒後は文部省へ。上司が九鬼隆一)。明治22年(1889)に帝国博物館総長に隆一が就任。翌年の東京美術学校(芸大)の初代校長に天心が就任。二人は文字通り日本美術界のドンとなった。明治21年、九鬼家四男として周造が芝で誕生。

 隆一は41歳で男爵に。妻妾同居ゆえか「万朝報」に〝漁色男爵〟と揶揄される。波津の気持ちは完全に天心へ移った。天心宅から徒歩5分の中根津に別居宅を設けて三郎、周造と暮した。そこへ岡倉天心が通い詰める。

 周造は、己を岡倉天心の子と思っていた時期があるらしい。彼の随筆「根津」には、同宅へ天心が訪ね来る生活が綴られている。やがて政治がらみで美術界騒動が勃発。九鬼隆一が帝国博物館総長の座を、天心はこのスキャンダルもあって東京美術学校の校長の座を失い、横山大観らと日本美術院を設立。

 岡倉天心は17歳で実家(蛎殻町の旅館)を手伝っていた12歳の基子に手をつけて妻にし、32歳の時に出戻りで行儀見習いで家に来ていた異母姪・貞さん(25歳)との間に子を成し(松本清張:天心は後に貞と書生の早坂を結婚させた)、そして波津とも切れない。不義と美術界騒動に疲れてインドへ。同地で仕上げた『東洋の理想』を英国で出版。大観らを伴ってボストンへ。ボストン美術館の膨大な日本美術品の整理・修復・蒐集を担う。前述書に加え『日本の覚醒』『茶の本』も米国で出版。大正2年(1869)に51歳で没。

 岡倉天心は、波津と熾烈な闘いを展開した妻・基子と共に染井墓地で眠っていて、九鬼周造が建てた母・波津の墓もその近くで眠っているそうな。ソメイヨシノが満開となる染井墓地の美しいことよ。以上、九鬼周造に影響大だっただろう九鬼隆一、妻の波津、岡倉天心の関係を大野芳『白狐~岡倉天心・愛の彷徨』、北康利『九鬼と天心~明治のドン・ジュアンたち』、こぶし文庫『九鬼周造エッセンス』からまとめてみた。(荷風と九鬼3)


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