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九鬼周造の人生 [永井荷風関連]

syuzou2_1.jpg 男爵・九鬼、その妻・波津、岡倉天心の関係より、九鬼周造が育った特異な環境が少しわかってきた。今度は前回記した書より九鬼周造の人生を辿ってみる。

 九鬼周造、明治21年(1888)生まれ。九鬼家の四男。東京・芝生まれ。子供時分は前述の通り夫と別居した母・波津と暮したり、九鬼家に戻されたりの生活。明治42年(1909)第一高等学校卒、東京帝国大学文科哲学科入学。その2年後に神田の教会で洗礼。大学院へ進む。

 大正6年(1917)に次兄・一造死去。翌年、30歳で一造の未亡人・九鬼縫子と結婚。大正10年(1921)に大学院をやめ、縫子を伴って欧州留学。前述済だがドイツでフッサールから「現象学」、ハイデッカーから「実存主義」を学び、パリで個人的にサルトルからフランス哲学を学び、逆にフッサール「現象学」を教えたらしい。※小生がフッサール『現象学』、サルトルの実存主義関連を読んだのは東京オリンピックの翌年、21歳の昔々の思い出。

 さて、九鬼周造は大正14年から昭和2年(1925~1927)の37~39歳の頃に、ペンネームで短歌・詩編を「明星」に発表。それらを読むと「ああっ」と思ってしまった。そこで詠われた恋歌は、あきらかに妻ではないフランス女性らしきが幾人も登場。

 北康利『九鬼と天心』もそこに注目していた。イヴォンヌ、ドニイズ、イヴェット、アンリエット、ルイイズ、リナ、ルネ~。このパリジャンらの多くは、どうやら娼婦らしく、まぁ、荷風さんに負けぬ様子が垣間見える。

 「イヴェットが身の上ばなし大嘘と 知れど素知らぬ顔をして聞く」「ルイイズが我を迎へてよろこばせ 日本に刺繍(ぬい)の衣着けて出づ」「ふるさとの〝粋〟に似る香の夜の ルネが姿に嗅ぐ心かな」。まさに荷風の『ふらんす物語』のようじゃありませんか。

 これらを記したのは妻・縫子が一時帰国中だったか。この時期に『「いき」の構造』の基になった『「いき」の本質』が書かれたというから、とても納得してしまう。哲学の遍歴と同時に女性遍歴も活発で、このへんは父や岡倉天心譲りなのかも知れない。

 この辺で夫婦仲が壊れ始めたか、昭和4年の帰国後の随筆『岩下壮一君の思出』に、こんな趣旨の記述がある。~帰国して京大哲学科講師となって京都暮し。妻は東京。家庭のことがうまくいかないので愚妻の霊的指導を十年振りに会った岩下君に頼んだ」と。

 結果は〝望まぬ形で妻から離婚を突きつけられた〟で、父と同じ血が騒いだか、祇園通いで一夜を過ごした足で教壇に立つこともあったとか。ついに祇園の芸妓・中西きくえさんを伴侶にした。荷風とおなじく一般女性ではなく、花柳界領域へ~。

『「いき」の構造』には、この辺も重要だと思われるのだが、九鬼関連書執筆の哲学系教授たちは、そんな下世話な話は眼もくれず耳も塞いで、年譜にも〝中西きくえ〟さんの名も出てこない。(荷風と九鬼4)※次回の挿絵は、この似顔絵にきくえさんの似顔絵も描き足す予定。


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