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岡不崩は朝顔権威、考現学へ [永井荷風関連]

okafuhou1_1_1.jpg 秋庭太郎著『考証永井荷風』で、著者は永井威三郎博士(荷風の弟)にも取材。博士談で「(家には)荷風が若い頃に描いた絵巻物もあった。荷風が絵事を好んだのは南画を能くした外祖父(鷲津)毅堂の血筋を受け継いだものであろう」を紹介。続いて~

 「因みに威三郎も同じく高師附属中学時代は、同級生の藤田嗣治と倶に〝図画は永井か藤田か〟と謂はれたくらゐに巧みであった。博士が昭和三十五年に欧州に旅した際に、巴里で藤田に逢ひ、その描くところの少女像を額入のまゝ贈られて帰朝。博士邸応接間に掲げられてあるその絵をわたしも見たことがあるが、兄弟揃って絵心があったのである」。(図画教師が荷風と同じ岡不崩との明記はないが、そうだとすれば不崩は藤田嗣治も育てたことになる)

 ここで藤田嗣治がらみ余談。八月中旬のこと、前日のブログ閲覧が通常の三倍余。藤田嗣治シリーズの「高田馬場でマドレーヌ夫人急死」記事の閲覧数が膨らんでいた。

 ややして気付いた。前夜の某テレビで「迎賓館でフジタの幻の天井壁画六点初公開」が紹介され、同作は〝藤田のマドレーヌヘの愛の表現〟のような説明から小生ブログ記事に辿り着いたらしい。

 だが弊ブログでは、マドレーヌが薬物使用疑惑で急死、藤田はすでに日本女性と交際開始。彼女の急死が闇に葬られたのは、同アトリエが高田馬場の陸軍軍医総監・中村緑野(ろくや。嗣治の二番目の姉の嫁ぎ先)宅内で、陸軍の闇が動いたせいだろうとの記事。テレビの〝愛の物語〟からアクセスされた方々を裏切る内容で申し訳なく思っている。

 さて、岡不崩は関東大震災後に小石川久堅町八十一番地(『しのぶ草』奥付に著者住所あり。金剛坂の荷風生家近く、春日通りと小石川植物園の間辺り)から、下落合(淀橋区下落合1980)に移住。この移転先は落合道人氏のブログ「考現学的アプローチの岡不崩」に詳しい。

 同ブログでは不崩宅を特定(中井駅北側の〝二の坂〟から分岐する階段坂の右側)し、不崩は大震災の復興具合を店舗詳細地図(挿絵、看板写生を含め)で記録。その『帝都復興一覧』は出版なし和綴じ二巻で国会図書館蔵。落合氏はその内容を詳細紹介。今和次郎と同じ考現学的仕事をしていたと紹介。小生は不崩の絵画から離れて朝顔栽培や復興地図などへの熱中は、明治画壇のゴタゴタに愛想尽きたゆえと推測するが、いかがだろうか。

 さて他人ブログに頼らず、自らも調べなければいけませんから国会図書館デジタルコレクションの岡不崩『しのぶ草』を読むことにした。これは狩野芳崖二十三回忌の明治四十三年十二月刊で、副題は「芳崖先生逸事」。(一)翁の絶筆 慈(悲?)母観音に就いて (二)翁の持論と美術学校の創立 (三)芳崖翁と大蒜 (四)翁の女子教育 (五)先生と予との関係。まずは不崩を知るべく(五)を読んでみる。

 挿絵は岡不崩。資料写真が落合氏紹介の一点のみ。やや不鮮明で髯の有無がはっきりせぬが髭ありで描いてみた。(荷風の絵心2)

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