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岡不崩の師・狩野友信 [永井荷風関連]

wirgman3_1.jpg 「芳崖先生逸事」より、荷風の絵の先生・岡不崩がどんな先生だったかを知りたく「(五)先生と予の関係」を読む。冒頭にこう記されていた。

 「予が初めて(芳崖)先生に会ったのは明治十七年で、其時分、予は狩野友信翁の門に洋画を習って居った。最も其頃は画家に成るつもりでやって居たのではなかった。(小文字は省略)或る時、友信翁が一緒に来いと言はれるから、従って行ってみると、老人揃の集会である~」

 端から注目記述。まず岡不崩が「狩野友信から〝洋画〟を習っていた」こと。さらに老人揃の集会が東京美術学校設立を内包した「鑑画会」だろうこと。まずは「狩野友信」を調べてみる。

 狩野友信は天保十四年(1843)、江戸築地の御用絵師・浜町狩野家の長男として誕生。狩野派の修行後に将軍家茂の奥絵師。その傍ら文久三年(1863)から開成所(後の東大)へ洋画修業に二年間通う。慶応元年(1865)に川上冬崖に水彩画を三年、ワーグマンに油彩画を二年学ぶ。明治六年に開成学校勤務。明治十四年(1881)に東京大学予備門の助教諭。この頃にフェノロサと交流。

 これで岡不崩が狩野友信から〝洋画を習った〟に納得です。改めて岡不崩の経歴を振り返る。明治二年〈1869)福井生まれ。明治十三年(1880)に上京して番町小学校へ。十六歳で狩野友信に入門。友信翁に従って鑑画会創立当初から参加。これを機に狩野芳崖から日本画を本格的に習った。

 明治十九年〈1886)、小石川植物園内に設置された図画取調掛の事務所(画塾)に通って修業。明治二十一年十一月、東京美術学校開校直前に芳崖が没。岡倉天心の勧めで東京美術学校入試を受けて第一回生になる。明治二十三年に高等師範学校講師に抜擢されて同校を退学。そして永井荷風、井上唖々の(さらに荷風弟・威三郎や藤田嗣治の)東京高等師範学校付属尋常中学校で図画を教えた。

 『しのぶ草』第五章では、友信翁の使いで芳崖宅に膠を貰いに行ったのを機に日本画の教えを直接受け始めたこと、芳崖から教えられた心得の数々、また妙義山スケッチに同行した思い出などが記されていた。

 永井荷風と云えば日本画、版画への造詣ばかりが注目だが、荷風の眼は不崩によって西洋画へも向けられていたと推測される。荷風のフランス滞在期(明治四十、一年:1907・8)は、ピカソがアトリエ〝洗濯船〟で「アヴィニョンの娘たち」完成の年。

 なお川上冬崖(寛)の明治四年刊「西画指南」は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。挿絵は狩野友信の顔資料なしゆえ五姓田義松、高橋由一、狩野友信に洋画を教えたチャールズ・ワーグマンを描いた。彼は文久元年(1861)に「イラストレイテッド・ロンドンニュース」特派員で来日。髭の有無両資料から髯ありを描いた。(荷風の絵心3)

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