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狩野芳崖:狩野派の厳しい修行 [永井荷風関連]

hougai1_1.jpg 荷風の絵の先生・岡不崩の大師匠は近代日本画の礎・狩野芳崖。彼は高橋由一、冬崖と同じ文政十一年(1828)生まれ。以下、吉田亮著『狩野芳崖・高橋由一』、中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』を参考にまとめる。

 狩野芳崖は長府藩のお抱え絵師・狩野晴皐の四子(長男)。本名・幸太郎。藩校で四書五経を学び、父から狩野派画法を学ぶ。元服十五歳、菩提寺で参禅開始。仏教体験を深化。十九歳、弘化三年(1846)に長府藩より十年間の江戸遊学を許可され、父と同じ木挽町狩野家で修業。塾生五、六十人余。弟子一人二畳の割り当てで絵具と箪笥と一枚の板張り。稽古が終わればそこに布団を敷いて寝た。

 最初は花鳥山水人物のお手本をまとめた三巻物の複写(臨写)。次に五巻の「御貸し画帖」(当時は狩野常信の山水人物六十枚)の原画模写、模写からまた模写の稽古書き。この期間が一年半。次が半年かけて花鳥十二枚。次に「一枚もの」。これは狩野派名手らの作品模写。修業は朝七時から夜十時まで職務と臨書で自由時間なし。狩野派の修行恐るべしです。全教程七、八年だが、芳崖はその半分期間で終了とか。

 その後、芳崖は弟子頭(塾頭)となって後輩を指導。この期間に道一本隔てた佐久間象山の塾に通った。象山は彼を〝今に人物になる〟と気に入り、彼も象山塾に毎日通った。狩野派の修行に加え、象山から東洋思想、西洋知識も吸収。

 安政四年に風景スケッチをしつつ帰郷。八歳若い医者の娘よしと結婚。藩のお抱え絵師になる。その後も長府と江戸を行き来するも、長州はじめの攘夷運動が過激化して江戸滞在ならず。明治四年、廃藩置県。御用絵師の扶持を失って生活苦へ。世は文明開化。〝西洋〟だけがもてはやされて日本画では食って行けない。極貧生活を妻が支えた。

 明治十年(1877)、五十歳で上京。生活苦は続くも二年後に薩摩・旧藩主島津公が伝統の家臣鍛錬行事「犬追物」の記録を絵で残すべく芳崖を月俸三十円で雇った。やがて若き岡倉天心、フェノロサと出会って近代日本画の雄として活躍。挿絵は狩野芳崖に妊婦モデルを添えた。さて、その女性とお腹の子は誰?(荷風の絵心4)

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