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狩野芳崖とフェノロサの出会い [永井荷風関連]

fenollosa2_1.jpg フェノロサについては前述の吉田亮、中村愿の両著に加え栗原信一著『フェノロサと明治文化』も参考にする。フェノロサはハーバード大(当時は有名大とも言えず)で哲学、経済学、政治学を学ぶ。卒業が明治七年(1874)。二年後、二十四歳でボストン美術館附属の美術学校(米国最初の)でデッサンと油絵を学ぶ。

 当時のフェノロサ家にはいち早く北斎版画あり。またジェームズ・ホィッスラーのジャポニスム作品(金屏風前の着物女性など)の話題も米国にも届いて日本へ興味を抱くようになっていた。そこに東大〝お雇い外国人・モールス〟(大森貝塚発掘のモース)〟が一時帰国。モールスに東大哲学講師を誘われて明治十一年(1878)に来日。

 当時の日本は廃仏毀釈で、日本美術の宝庫=諸寺が瀕死状態。上流階級も疲弊。世をあげた文明開化で西洋かぶれ。明治九年、伊藤博文進言の工部美術学校設立でイタリア講師を招聘。お雇い外国人月給が数百円で、芳崖はじめの日本画家らは一円にも困る生活。古美術は二束三文で骨董屋に溢れていた。

 当時の外国人の多くがそうだったようにフェノロサも古美術を蒐集。多くの偽物も買い込んだ。黒田侯爵家の立派なコレクションに衝撃を受け、本格的な古美術研究を開始。日本語を読めぬ話せぬ彼の古美術蒐集・研究の手助け(通訳)を、東大の教え子で英語力抜群の有賀長雄(後の法学・社会学者)と漢籍も学び古書も翻訳できる岡倉覚三がした。狩野友信や狩野永悳(えいとく)など日本画の人脈も広げて、彼の古美術研究が進み、明治十五年(1882)に「日本美術工芸は果たして欧米の需要適するや否や」を講演。これが『美術真説』と題して刊。

 これに、押し寄せる西洋文明に危惧・反感を覚え、伝統的日本美術を保護・育成、かつそれらを海外輸出の殖産興業にと画策した「龍池会」メンバーらが乗った(利用した)。彼らは今までの鬱憤を晴らす勢いで洋画排斥、日本美術ムーブメント興しに立ち上がった。

 フェノロサは日本古美術を救った恩人か、単に利用された存在か、はたまた日本美術品の海外流出の罪ある存在か~。この辺も諸説ありで、興味ある方は膨大なフェノロサ関連書でお勉強をどうぞ。

 かくして「龍池会」の活動で、洋画科なしの東京美術学校開設(初代校長は岡倉覚三、副校長がフェノロサ)。ちなみに西洋画科設置は明治二十九年(1896)。この辺は政治がらみの複雑さゆえ省略。(松本清張『岡倉天心~その内なる敵』に詳しい)

 さてフェノロサと狩野芳崖の出会いは何時か。明治十五年(1882)の第一回内国絵画共進会でフェノロサが芳崖作品を激賞。友信に誘われて芳崖がフェノロサを訪問。(栗原信一著では、フェノロサが岡倉覚三と共に芝公園の芳崖宅を訪ねた)。以後、フェノロサが月々二十円で、芳崖に画を描く環境を整えたとか。(荷風絵心5)

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