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岡倉覚三と狩野芳崖と初子 [永井荷風関連]

okakurahatuko2_1.jpg フェノロサと狩野芳崖の出会いに比し、岡倉覚三と狩野芳崖の出会いを重視する説も多い。岡倉覚三(天心)については、今年春の「九鬼周造」の項、松本清張「岡倉天心」の項で紹介済も改めてお勉強。

 岡倉の父は、横浜で福井藩交易所支配人。福井の生糸・絹を外国貿易商に売っていた。覚三は同家次男で文久二年(1863)生まれ。長男早逝で、父は覚三を英才教育。八歳で母を亡くした頃から漢籍、英語の勉強。英語は横浜の教会塾。

 明治四年、十一歳で廃藩置県。一家は東京・蛎殻町で宿屋兼越前物産取次所を経営。覚三は南画、漢詩、琴、茶道を習いつつ東京外国語学校から開成学校へ。学制改正で同校は東大。文学部で英米文学を読み漁った。弟。由三郎は後の英語学者だが、彼にして兄の英語力には遠く及ばなかったとか。

 そして東大の政治学、経済学教授がフェノロサだった。彼の古美術蒐集・研究に英語堪能かつ漢文が読めて古書・古文書が解読出来る覚三の存在は欠かせない。

 東大卒から文部省官吏。最初は音楽取調掛(後の東京音楽学校。掛=かかり=係)も上司と合わず内記課へ。明治十六年、文部官僚実力者・九鬼隆一が「龍池会」副会頭になり九鬼~岡倉~フェノロサの日本美術復興体制を固めた。

 明治十六年春、第二回内国絵画共進会開催で、フェノロサが芳崖作品に驚嘆。芳崖を訪ねたフェノロサの同行者・通訳が覚三だった。明治十七年、九鬼によって覚三とフェノロサを京都・奈良へ三度派遣。法隆寺・夢殿の秘仏(救世観音)が初めて姿を現した。明治十八年、図書取調掛(美術学校設置準備)が小石川植物園内に設けられて覚三が掛員に就任。明治十九年、覚三とフェノロサが約九ヶ月の欧米美術視察へ。

 明治二十二年〈1889)、帝国博物館総長に九鬼隆一が、翌年に東京美術学校初代校長に覚三が就任。翌年に狩野芳崖が絵画科主任教授に就任。開校直前の十一月、芳崖急死。その絶筆が近代日本画の代表作「悲母観音」(一方、当時の油彩代表作は高橋由一「鮭」)だった。「悲母観音」には、覚三と芳崖の秘めた想いが込められていたらしいのだが、長くなったので次回へ。(荷風絵心6)

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