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芳崖「悲母観音」の秘密 [永井荷風関連]

hibokannon_1.jpg 狩野芳崖「悲母観音」の解釈は諸説。吉田亮著の最終章「悲母観音をめぐって」も諸説彷徨。~フェノロサの影響はなかった。米国フリーア美術館蔵「魚籃観音」原画説も違うだろう。では日本の聖母子像か、はたまた裸婦下絵群の意味は~。著者は亡くなった妻に〝理想の母像〟を見たのではと結んでいた。

 それではスッキリしない。芳崖夫妻に子はなく、彼にとっての妻は苦難を支えた伴侶で〝母〟ではなかろう。松本清張『岡倉天心』では「観音像は八歳で失くした母への追慕だろう」と記していた。

 小生は弊ブログの九鬼周造シリーズで、彼の父・隆一と母・初子と岡倉覚三(天心)の濃密な不倫関係を記したゆえに、「悲母観音」の裏にも三角関係ありとする中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』の考察が〝面白い〟と思う。

 以下、同趣旨を要約。~初子は茶屋「山本山」七代目と芸者の子。裕福な暮らしも七代目失踪で絶縁されて芸者へ。そんな十五歳の初子を文部官僚の漁色家・九鬼隆一が落籍(ひい)た。九鬼には常に外に女がいるも、初子は八回妊娠させられ四人の子を産んだ。ワシントン日本公使時代も別の女がいて、その上でまた身籠った。

 この時、フェノロサと岡倉は九ヶ月に及ぶ欧米美術視察旅行。米国視察から欧州へ。覚三はキリスト教絵画の聖母像、聖母子像、受胎告知、アダムの創造などを見て、明治十七年に芳崖が描いた「観音」を想った。彼ならば「キリスト教美術と仏教美術の融合作」が描けると確信した。

 欧州から再び米国に戻って公使館へ。妊娠中の公使夫人・初子が体調不良を理由に覚三と共に帰国を望む。長い船旅の間に二人の心が通った。帰国後の明治二十年秋、覚三・初子・覚三の弟・由三郎が秘かに小川町の芳崖宅を訪問。芳崖は「受胎観音」を描く下絵に初子の(西洋画と同じように)裸体デッサンを重ねた。(この裸婦下絵群は「悲母観音」と共に国指定重要文化財)。

 芳崖は同下絵から「受胎観音」を描けば、九鬼隆一の眼が誤魔化せない。また自身に病魔が襲って時間的余裕がなくなったことで同下絵で「悲母観音」に切り替え、覚三と自身の挑戦「キリスト教美術と仏教美術の融合」かつ「真の芸術は宗教と結びついてこそ」を具現。

 荷風の師・不崩は「しのぶ草」で「悲母菩薩の童子モデルは翁の愛孫(養子の子)、眼下の奇峯は妙義山が参考にされた」と記した。そしてモデルは初子、お腹には九鬼周造。その後の覚三と初子の仲は一段と深まって、幼き周造は覚三が父だと思ったほどの暮しを展開。だが九鬼隆一は頑として離婚を認めず、彼女を精神病院に閉じ込めた。

 長くなったので、この〝お遊び〟を終わらなくていけない。最後に長じた九鬼周造は、永井荷風の「いき」に憧れて、「いき」を哲学した、と小生の独断で締めくくって終わる。(荷風の絵心7で完)

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