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〝お葉〟に会いに藤島武二展へ [スケッチ・美術系]

oyoufutatabi.jpg 秋の気配に、閉じ籠もっていた冷房装置の部屋を出て美術鑑賞へ。興味を惹いたのは〝大行列の大美術館〟ではなく、練馬区立美術館「生誕150年記念 藤島武二展」。

 フェノロサ、狩野芳崖、岡倉天心らによる洋画排斥の東京美術学校創立までを勉強したので、その六年後の西洋画科設置からのお勉強。藤島武二は慶応三年、薩摩藩士の子として誕生。十六歳より四条派の画家に学び、十八歳で上京して深川の四条派・川端玉章門下。「玉堂」の名で美人画などを描くも、二十二歳で西洋画に転向。二十九歳で西洋画代表・黒田清輝によって助教授任命。

 三十八歳、明治三十八年に四年間の欧州〝官費留学〟。五十九歳、大正十五年に「油彩で東洋的典型的美」到達の代表作『芳蕙(よしえい)』、翌年に『鉸剪眉(こうせんび)』発表。その代表作も観てみたかった。

 さらにそれら代表作のモデルが、なんと〝責め絵〟伊藤晴雨から竹久夢二へモデル・愛人遍歴を経たお葉さん(本名・佐々木カ子〝ネ〟ヨ、通称嘘つきお兼、〝お葉〟は夢二が名付けた)らしいのだ。この時、お葉さんは二十二歳。どこでこんな知識を得たかと云えば、本棚の金森敦子著『お葉というモデルがいた』。

 以前の弊ブログで「夢二の〝お葉〟は責め絵モデルだった」「夢二・晴雨・お葉」(共に閲覧多い記事)の〝お葉さん調べ〟は図書館資料によったが、その中の一冊の同書を神田古本市で三百三十円で入手。本棚にあったのを引っ張り出して読み直したってワケ。

 藤島武二とお葉さんの関係を同著より要約する。~お葉さんは十三歳から東京美術学校のモデルとして活動。当時の藤島は日本的画題を描く時に彼女をモデルにしていたとか。長女より一つ下のお葉に父親のように接していたそうな。

 やがてお葉さんは責め絵・伊藤晴雨のモデル・愛人。そして竹久夢二のモデル・愛人へ。運命の男たちと愛と性の遍歴を経て、再び藤島武二の前に立ったのが大正十五年。藤島は横浜で中国服をオーダーして、代表作『芳蕙』と『鉸剪眉』を描き、お葉さんにとってもそれが最後のモデル仕事。

 昭和五十二年の「藤島武二回顧展」を訪ねたお葉さんが、こう言ったそうな。~「女官と宝船」もそうですし、先生の代表作「芳蕙」のモデルも私でした。半年間も先生のアトリエに通い詰めましてね」(同著の孫引きで平岡博「藤島武二展での邂逅」より)。お葉さんは、そう述懐した三年後の昭和五十五年に七十六歳で没。

 さぁ、藤島武二展へ〝お葉さん〟に会いに行こう。挿絵は二年目のブログで描いたのを再利用。(藤島武二1)

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