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グラフィックデザイナー・藤島武二 [スケッチ・美術系]

mucha2_1.jpg 「生誕150年記念 藤島武二展」は、多彩な描き方のサンプル集みたいで、小生の胸打つ作品はなかった。図録年譜をみると四十三歳、明治四十三年(1910)から四年間の欧州留学(官費)。帰国後に東京美術学校の助教授から教授になって高等官七等とあり、その後の昇進も記されていた。

 ここで気付いた。「あぁ、彼のスタンスは文展・帝展、日本の西洋画アカデミスの教師・官費・官吏ゆえの破綻のなさ、安定感なんだ」と。図版の偉そうな官僚・軍人風の写真と相まって、ゆえに絵に面白さがなかったんだと納得した。

 そのなかでグラフィック・アーティスト=藤島武二のコーナーは「おぉ、いい仕事じゃないか」とちょっと胸が騒いだ。それら仕事は明治三十四年(1901)の東京新詩社(与謝野鉄幹主宰)の『明星』表紙や挿絵、また与謝野晶子『みだれ髪』表紙に端を発したグラフィックデザイナー的な仕事群。

 白馬会や東京美術学校など黒田清輝の世界から離れた土壌で、個性・才能発揮かしらと思った。藤島武二の名や絵を知らぬ方も、与謝野鉄幹・晶子歌集の表紙の絵、といえば多くの方が頷くかもしれない。

 そのなかに明治三十五年『文芸界』表紙もあった。確か永井荷風が同誌懸賞小説に応募し、入選を逸するも単行本化『地獄の花』(荷風処女本)されたはず。森鴎外から〝読みましたよ〟と言われて大感激した青年・荷風がいた。また荷風が慶応義塾文学部教授と『三田文学』を辞めた二年後、与謝野鉄幹が同教授になっての『三田文学』(大正八年)の表紙や『スバル』表紙もあった。

 これら仕事の図録解説を読むと、留学前に欧州に憧れて蒐集していたアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォーの中心人物)、オットー・エックマン(ドイツ・ジャポニスムの先駆者、日本の書からアレンジヒントを得た書体)、スタンラン、ハンス・クリスチャンセン、ヤン・トーロップ、フェリックス・ヴァロットンら「ジャパニスム~アール・ヌーボー」の人々の資料を参考に描かれたもの、と説明されていた。

 ここで、失礼ながら藤島武二の絵への興味は急速に薄れ、彼が模倣(参考にした)した「ジャポニスム~アール・ヌーヴォー」への関心が盛り上がった。

 先日のフェノロサの記事で、彼が〝お雇い外国人〟になったのはホィッスラーのジャポニスム作品から日本への興味を抱いて~と記したばかりゆえ、まずは印象派、後期印象派の画家らの「ジャポニスム」についてお勉強したくなってきた。俄か絵画好き隠居に美術史は無知領域で、お勉強にキリがありません。

 挿絵は若い藤島武二が熱心に模写しただろうアンフォンス・ミュシャ作品から、小生は「自転車パーフェクタ」ポスターの簡易模写(途中まで)。次は「ジャパニスム」のお勉強へ。(藤島武二3おわり)

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