SSブログ

「菊丸」月島桟橋と投身事件 [週末大島暮し]

kikumaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットの「黒潮小屋」の次は船です。船マニアではないから自信なしも、煙突とマーク、その後ろのアーチ状柱などから「菊丸」と推測した。写真は岡田港で、手前のドロップ(涙)状堤防の内側は漁港かな。

 「菊丸」は昭和4年に就航の759トン。霊岸島~大島~下田、房総航路など。昭和10年に木更津港外で座礁。昭和13年頃に傭船で陸軍船として中国へ。昭和17年より機密津軽防備部隊船として室蘭方面で活動。昭和21年に東海汽船復帰。昭和44年に解体。昭和初期と昭和21~44年に大島航路に就いていたらしい。

 「菊丸」をネット検索したら、小生の記事「辻まこと(3)西木版:もく星号のダイヤ」がヒット。西木正明『夢幻の山脈』で、昭和27年の「もく星号墜落」後に辻まこと・西常雄の両名が、宝石回収に東海汽船・菊丸で竹芝桟橋から大島へ向かった、の記述に、それは間違いだろうと記していた。

 竹芝桟橋船客待合所竣工は昭和28年7月。松本清張著の「遺体は東海汽船の〝菊丸で月島桟橋〟へ帰ってきた」とある。また野口富士男『耳のなかの風の音』は、大島より〝月島桟橋へ帰港途中のK丸〟から実父が身投げした事件の顛末記。辻と西は「月島桟橋」から大島へ向かった、が正しい。

 霊岸島から芝浦桟橋に移ったのが昭和11年。昭和23年3月から月島桟橋で、昭和28年7月に竹芝桟橋になる。昭和初期に霊岸島発「菊丸」で大島へ渡った林夫美子、与謝野晶子、漫画家集団ら多くの文化人が記録を残している。「葵丸」が昭和14年12月に乳ヶ崎海岸で座礁沈没ゆえ、当時のメイン船は「菊丸」。

 時代は遡るが野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』を読むと、同家繁栄を築いたのが母方の祖父・久右衛門で、長男が二代目を継いだが女道楽。東京湾汽船の社長・桜井亀二の娘「菊」と結婚も芸者を落籍。「菊」は離婚し、二代目は信用を失って放浪生活へ。

 その後を潤一郎の伯父(先代の長女の養子婿)が引き受けて手堅く商売していたが、長男が無茶な相場で大損。伯父は大正4年(1915)に、息子の責を負って大島通いの船から三崎沖で投身自殺とか。「菊丸」の前の「豆相丸」だったろうか。

 船は乗客それぞれの悲しく辛い人生も運んでいる。そう思うと、船ってちょっと悲しく重い感じもする。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。