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「源為朝碑」伝説の大島 [週末大島暮し]

tametomohi2_1.jpg 興味や出会いなしだと、スルーして無知のままの例も多い。昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットに「源為朝碑」と「行者屈」あり。無関心だったが、いい機会ゆえお勉強。まずは「源為朝」から。

 源為朝は保元1年(1156)「保元の乱」の登場人物。後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇の白河殿を襲った乱。上皇方の源為義・為朝父子は、父が打首で為朝は大島に配流。史実としては概ねそこまでか。

 鎌倉時代の承久2年(1220)頃(年代不詳)に作者不詳の軍記物語『保元物語』が刊。「保元の乱」はじめの武勇は詳細記述も、捉えられた後は、弓が引けぬように肘を鑿で抜かれた。「為朝は伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人ともせず」で、伊豆国を預かる狩野工藤茂光も「あつかひかねる」で終わっている。島での暮し、鬼ヶ島などの詳細は記されていないとか。(次回に『保元物語』を読み、この辺を改めて記す)

 江戸は文化4年(1807)になって曲亭馬琴が、武将末路がそれでは気の毒だと、万巻の書を看破して膨らませた『鎭西八郎為朝外伝 椿説弓張月』(挿絵は葛飾北斎)の前篇を刊。計5編29冊。琉球でも大活躍の椿説=珍説、為朝外伝=正史外の物語に仕上げた。

tametomoya2_1.jpg さて、絵葉書「為朝顕彰碑」(現在は露天風呂〝浜の湯〟管理棟前にある)には、何が記されているのだろうか。「町史」によると大正8年建立だが、摩耗して解読できぬが「為朝公の事蹟を世に伝え、英雄の霊を慰め、更には島の男子の雄心を鼓舞するため」の碑文とか。

 島には為朝が祭神の岡田八幡神社、為朝神社あり。その神事を含め椿説・為朝が満ち満ちている。また島の娘と所帯を持った男性を〝為朝さん〟と云うそうな。加えて「役小角」他にも伝説があって、島民はそれらを上手に語れなくてはいけない。

 写真下は北斎の挿絵。為朝が射った一本の矢が、先陣・忠重の討伐船を撃沈する場面。島民にこの画を見せれば、血沸き肉躍る説得力で語ってくれよう。島民は〝大嘘上手〟で誰もが馬琴さん、北斎さんなのだ。(と記し、そうだ神田古本市で『保元物語』入手を、と思い立った)。

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