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「源為朝」を神田の茶店で~ [週末大島暮し]

hatimanjinjya_1.jpg 前回の続き。「神田古本市で『保元物語』を探そう」と思った。岩波書店刊の日本古典文学大系『保元物語 平治物語』を200円で入手。近くのタリーズ店でコーヒーを飲みつつ頁をひも解いた。

 「此為朝をば首を刎らるべきか、禁獄せらるべきか、如何有べきと様々也けるに~」。「遠流にてこそあらめ」とて、伊豆の大嶋へ流しつかはさる」。そして「以後弓を引せぬ様に相計べし」。かくして左右の腕をのみにて打放てぞ抜たりける。 

 「伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人共せず。思様に振舞ければ、預(あづかり)伊豆国大介、狩野工藤茂光もてあつかひていかゞせんとそ思ひける」 ここで終わっていた。何度も読み返したが、為朝の記述はここで終わっていた。

 同書は「金毘羅宮所蔵本」で、後に多くの流布本が出た。同書には小活字で付録「宮内庁書陵部蔵本『古活字本 保元物語』も収録。それを読むと、為朝が湯屋で真裸のところを捕まって「伊豆大島へながされけり」と出てきた。すでにフィクションが膨らんでいる。まぁ、そこから読んでみる。

 「我清和天皇の後胤として八幡太郎の孫なり」と大島を菅領し、五島をうちしたがへし。十年過ぎ、白鷺が飛んで行くのを見てはや船をだして鬼ヶ島へ。彼らを配下に。これを聞いた後白河院がおどろいて茂光に命じ五百余騎、兵舟二十余を率いて大島へ討伐に」

 だが為朝は、無駄な殺生を嫌って念仏を唱えるが、そこに一陣の舟が迫ってきて矢を射った。沈む舟から兵らが他の舟に移るなどを見て「保元の時は一矢でおほくの兵をころした。あぁ、南無阿弥陀仏」と唱えながら家の柱を後ろに腹をかき切った。「つゐに本意をとげず三十三にして自害して、名を一天にひろめけれ」で終わっていた。

tokyokokurituhaku_1.jpg そして『保元物語』から587年後、江戸は文化4年に馬琴『椿説弓張月』。「保元物語」の優れた武将・為朝の末路が甚だ悲惨だとして、大島で死なず琉球に渡って大活躍の椿説=珍説物語を創作。これが大当たり。浄瑠璃、歌舞伎、簡易読物、錦絵などになって大普及。馬琴の勧善懲悪、道義心、士気高揚を為政者らも利用したりで、大島の「為朝顕彰碑」もその一つかも。

 なお馬琴『椿説弓張月』最後に「為朝神社并南嶋地名辨畧」の項あり。全国の為朝神社が挙げられていた。大島に関しては~「和漢三才図会絵巻の六十七、伊豆国の條下に云(いわく)為朝社は大嶋にあり、祭神鎭西八郎為朝云々。大嶋の為朝の社あること、いまだ詳ならず」と記されていた。

 大島・元町の「為朝神社」(頭殿神社)は藤井家の氏神で神事は十月。岡田港の村に「八幡神社」(写真上)あり。同神社の御神体は為朝が配流の際に奉じた「九重の巻物」。「開かずのお箱」に収められ、開けたら眼がつぶれる。毎年1月15日に正月祭。為朝がテコ(梃子)で溶岩を取り除いた縁起から「天古舞」が奉納されている。

 写真下は『椿説弓張月』より国芳描く「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(東京国立博物館蔵/研究情報アーカイブスより)は、為朝が清盛を討つべく水俣の浦から船出をするも、荒天で転覆瞬間に讃岐院使者と称する天狗らに救われ、紀平治が抱く舜天丸(すてまる、後に琉球王)も沙魚(わにざめ)に救われる図。

 史実(現実)はさておき、戯作者も絵師も長屋の庶民も〝想像力豊かな世界〟を共有して愉しんでいる。これを〝飛んでいる〟と解釈すれば、次の絵葉書「行者窟」へ入りやすい。

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