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「行者窟」伝説に満ち満ちて~ [週末大島暮し]

bakinbun1_1.jpggyoujyakutu2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」から、次は「行者窟」。小生、島通い27年も未だ訪ねず。この機会に〝役小角〟も少しお勉強。

 まず馬琴『椿説月張月』を読んでいたら、「行者堂」言及の一節あり。江戸の読本なれど楷書版字で実に読み易い。その一節を原書通りに筆写してみた。

 伊豆國は、いにしへより罪人を流さるゝ地なれど、大嶋へは文武天皇元年、役小角を配流されし、これはじめ歟(か)。その以前の事傳らず。今も小角が往ける嵒窟(いはや)、泉津といふ村にあり。嶋人これを行者堂と称して、常に詣るとなん。

 役小角(えんのおづぬ)のお勉強に藤巻一保著『役小角読本』を読む。信頼できる史料は死後百年後の797年刊『続日本紀』と822年『日本霊異記』のみとか。その『続日本紀』も史実は一節。

 丁丑(ひのとうし、文武三年〝699〟五月二十四日)、役君小角、伊豆嶋に流される。初め小角、葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師なりき。後にその能を害(ねた)みて、讒(しこ)づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に配(なが)さる。

 次から早くも伝聞。「小角能く鬼神を使役して、水を汲み薪を採らしむ、若し命を用いずは、即ち呪を以て縛る」 史実はそれだけ。しかも亡くなって百年後の記述で、どこまで信用していいのやら。史実はこれにて終了。折角ゆえ〝虚構〟も少し遊んでみる。

 没後、約八百年の室町末期に、一冊にまとめられた最古の小角伝『役行者本記』あり。著者は同記より経歴を要約。舒明六年(634)、葛木上郡茅原(現・奈良県御所市)生まれ。父は高賀茂十十寸呂(たかかもとときまろ)、母・白専女(そらとうめ)。賀茂氏の氏神・賀茂大神の祭祀、呪術を司祭する家系。

 十代、二十代は家職の知識習得。その合間に山に籠って修行。三十代に入ると人間界の一切を捨て、山中籠居で過酷な仙人修行。日本最初の神仙道家になる。山に籠って三十年余の文武二年(698)、朝廷が全国各地に鉱物資源調査を命じる。朝廷のお膝下の大和國調査に小角に白羽の矢が立った。小角は命を断って朝廷の怒りを買った。捕縛の内通者が弟子の韓国連広足。かくして文武三年(699)に伊豆大島へ配流。

 絵葉書の「行者窟」で昼は修業し、夜は富士山へ飛んだそうな。二年後の大赦で故郷・茅原に帰り、以後は諸国の峰々を巡ったので、各地の霊山幽谷に行者の足跡が残された。著者は巻末に全国99カ所の霊地を紹介。小生自宅近くの高田馬場「穴八幡」の別当「放生寺」にも、子犬が潜れるほどの窟に〝役行者〟由来が記されていたりするから、窟=役小角と思っても過言ではないかも。

 さて島の「行者窟」は間口16m、奥行24目m。本人作と伝わる像もあり。都指定旧跡。毎年6月15日の「行者祭」は無形民俗文化財。島内外の信者が「護摩供養」をし、十年ほど前までは洞窟手前の浜で地元・泉津小の子供らの奉納相撲もあったとか。平成三年より落石危険で行者窟への道は交通止とか。

 今、行者窟へ行けば、配流699年から現2017年までの1318年の時空を一気に飛ぶことになる。そう、ここから富士山へ飛ぶなんぞは朝飯前のこと。大島は伝説の島と改めて認識です。

 追記:「大島公園」から下って海岸遊歩道へ。「サンドスキー場」跡の先が行者浜で、平成6年(1994)に「行者海岸トンネル」(500㍍)が開通。トンネルを抜けると「海のふるさと村」。緊急時や職員用トンネルらしいが、車は通れぬも自転車走行の写真が幾点もアップされていた。自転車は可らしい。島は狭いが、知らない場所も多い。

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