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「橘丸」船も島も有為転変 [週末大島暮し]

tatibanamaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」より五枚目は「橘丸」。煙突の流線型が特徴か。愛称〝東京湾の女王〟。写真は元町港。昭和十年(1935)霊岸島から初就航。岡田堤防完成(昭和十五年)まで交通船が沖合まで往復。

 昭和十三年に海軍徴傭で病院船に。同年に中国軍襲撃で浅瀬座礁・横転。仮修理後に日本で本格修理。翌年解傭で東京湾汽船に復帰。だが観光客少なく日清汽船へ傭船も、「葵丸」が乳ヶ崎で座礁・沈没(昭和十四年十二月)で、再び大島航路に復帰。

 昭和十八年、陸軍徴傭で病院船。「橘丸事件」(病院船ながら部隊、武器輸送で千五百人捕虜)。戦後は復員船。昭和二十五年二月に東海汽船・大島航路に復帰。昭和四十四年「かとれあ丸」就航で神津島・式根島航路へ。昭和四十八年「さるびあ丸」就航で引退。

ensoku.gif なんと波乱の〝船歴〟よ。小生は昭和三十二年(1957)に中1の秋の大島遠足で「橘丸」に乗っている。記憶皆無も背景は三原山、両脇にアンコさんのクラス全員写真。

 町史をみれば第一回椿まつり、小涌園ゴルフ場完成、波浮港大火(十六戸焼失)の翌年。遠足年の十月に三原山噴火で火山弾で一名死亡、重軽傷五十三名。そして遠足翌年が三原山・山津波(狩野川台風)で元町五十五戸全壊。本当にそんな時期の災害の間隙をぬった遠足だったかと首をひねるも写真記録に間違いはなかろう。

 船のみではなく、大島も波乱の連続だな。〝自殺名所〟という変な要素を含んだ三原山人気、離島ブーム、元町大火も凄く、全島避難を含む幾度の三原山噴火、土石流などの大災害など。今は観光客減、人口減に直面しているか。小生もフリーランス人生で仕事は荒波サーフィンの如しも、平成三年に島ロッジを建てるとは思ってもいなかった。

 振り返れば島へのアクセスも激変だった。羽田発YS-11、ジェット機B737-500、双発機DHC8-300。調布発のアイランダー機。船は夜発の大型船「かとれあ丸」「さるびあ丸」。それでは愛犬同伴が厳しく車で熱海発「シーガル」へ。今はジェットフォイル艇。空便はジェット機に備え空港大拡張も、利用者少なく羽田便消滅。

 船史、島史、アクセス史、ついでに我が人生も「有為転変」。明日のことは誰にも分らず。今をそれなりに一生懸命生きること~。

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