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「三原山」消え失せた砂漠 [週末大島暮し]

miharayama2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に、二つ折りパノラマ写真「三原山全景」があった。この写真を前に考え込んでしまった。小生が知る風景とはかなり違う。焦げ茶の溶岩、黄色の砂漠。古い絵葉書ゆえの褪色か、はたまた砂漠風に彩色修正が施されたものか。

 本当はどんな色なのかしら。昔の写真を探し見るもモノクロばかり。小生の昭和32年の大島遠足のクラス写真も白黒で、カラー写真は未だ普及していない。

 写真探しを諦めて三原山噴火史を探った。近世では天和4年(1684)~元禄3年(1690)の7年間に渡った噴火。安永6年(1777)噴火。そして260年振りの昭和25,26年(1950~51)大噴火。これで風景が一変した。

miharakako2_1.jpg 当時の様子を坂口安吾『消え失せた沙漠~大島の謎~』(「文藝春秋」昭和26年7月1日号掲載)が書いていた。

 「正月元旦に大島上空を飛行機で通過したとき、内輪山の斜面を溶岩が二本半、黒い飴ン棒のように垂れていただけで、くすんだ銀色の沙漠が広がっていた。(略)いわば海の上へスリバチを伏せたようなケーキを置き、その上に白クリームをかけ、その中央にチョコレートを二本半の線で垂らしたように見えた。火山の凄味はなく、夢の国のオモチャのように美しいものであった」(原文を短くまとめた。以下も同じく)

 「そんな風景が噴火で一変した。三月と四月の大噴火で広い沙漠の半分を熔岩が埋めてしまった。大変なことです。(略)元禄以来二百六十年振りという大爆発。(略)この熔岩が風化して再び沙漠になるには百年か二百年もかかるのだろうか。とにかく三原山といえば沙漠が名物であったが、その沙漠が昭和二十六年(1951)に失われて熔岩原となった。今後は熔岩原が三原山の新名物で、再び沙漠が名物になるには百年もかかるとすれば、これは一つの歴史的爆発に相違ない」 改めで同随筆題名は「消え失せた沙漠」。またこの絵葉書もそれ以後の製作とわかる。

 三原山はその後、昭和32年(1957)に爆発し、昭和61年(1986)11月15日に火口噴火。一週間後に〝割れ目噴火〟で溶岩が元町まで迫って同21日に全島民が島外避難。

 小生が知っている三原山・表風景は平成3年から。平成8年(1996)秋に火口周辺まで開放されて遊歩道が開通。その時に〝陶芸の野焼き〟をし、遊歩道を歩いて火口を覗いた。

 三原山は噴火の度に景色を変えていると改めて知った。15日が全島民避難の大噴火から31年目。噴火は40年周期とも。次に島へ行ったら「火山博物館」を訪ねて、昔の三原山の様子を、また今後の心構えをしておこうと思った。

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