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カンディンスキー(2)まずは具象画 [スケッチ・美術系]

kandinskykao9_1.jpg 二十歳で読んだカンディンスキー著作は、理解に難儀して〝人となり〟まで気は回らなかった。今回のチラシ『商人たちの到着』を観て、「抽象画の前に、こんな絵を描いていたんだ」と驚いた。幾点ものスナップ写真から容姿も知った。ショップで購入の松本透著『もっと知りたいカンディンスキー』や図書館本より、まずは彼の経歴調べ~

 1866年(慶応2年、2年後に明治)、モスクワ生まれ。黒田清輝と同い年だな。幼児期に両親離婚。ドイツ系伯母に育てられる。叔母は彼にドイツの伝統的童話をよく話した。1892年(明治25)、モスクワ大卒。経済学と法律を学び、同大法学部助手の時期(1896年、30歳)にモネ「積みわら」を観て、画家を志し、ミュンヘンへ移住。

 ちなみに黒田清輝は18歳で法律を学ぶべく渡仏も、20歳で画家志望に転向。1896年に東京美術学校に西洋画科発足で教師に。さて30歳のカンディンスキーは、画学生に混じって画塾でデッサン開始(ピカソのデッサンは秀逸も、彼のデッサン力は?)。ミュンヘン美術アカデミー2度目?の入試で合格。33歳。インテリゆえ考察・分析力は鋭く、旧来授業に疑問。芸術集団「ファーランクス」を結成。展覧会自主運営や画学校も開設。当時はどんな絵を描いていたのだろうか。

 「木版画」と「彩色ドローイング」とか。「木版画」はドイツ中世騎士物語(幼児期に叔母から聞いた童話の数々。また改革へ向かう画家をも託して)。「彩色ドローイング」は平たく言えばチラシ系題材で短い筆致の具象画。1904年からパリの「サロン・ドートンヌ」に出品。1906年に大賞。大学卒業頃に従姉妹の妻・アーニャ(1911年に離婚)と結婚していたが、当時は画学生の生徒ガブリエール・ミュンターが恋人(1914年に別れ)。

 ドイツは当時「ユーゲント・シュティル」(アール・ヌーヴォー要素を色濃くした絵画からデザインまでを含めた考え方)や、「ミュンヘン分派派」(絵画を建築の一部と捉えた考え)の動きがあって、それらに影響を受けたらしい。

 題材=ドイツ中世舞台、技法=テンペラ画(生卵使用)、短い筆致~これらを選んだのは、実景から離れて自身の色彩感を自由に描きたくての意もあったか。次第に眼に見える〝風景解体〟で、色彩を自由に構成する抽象絵画傾向へ。1910年、水彩による最初の抽象画を描く。〝具象から抽象〟へ変わって行く過程が、どことなく微笑ましい。

 この時期に各国各都市を旅行。生活は?と心配すれば、なんと彼はモスクワに7階建てアパート所有。裕福な茶商人だった父の遺産かしら。〝生活なら召使がやってくれる〟とまで言わぬが、彼に生活の苦労は無縁で芸術的思索に耽溺か。

 1911年、45歳で『芸術における精神的なもの』刊。似顔絵は47歳の写真から。鼻眼鏡。「彼の写真から画家をイメージするのは難しい。行政長官か哲学教授か、あるいは医者を想像させる」(フランソワ・タッルガ著)

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